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家族の温かい抵抗

020330


今朝は、山に行く支度を終え家を出る寸前で家族の温かい抵抗に遭い、山行を取り止めてしまった。

昨夜というか今日の早朝までかなりの雨が降っていたために、道が悪くなっていて心配だから、今日山に行くのは止めてくれと家族に懇願されてしまった。

家族には、山イコール危険あるいは遭難という図式があるようだ。危険は、山だけでなく家の中にも、街中にも一杯あると思う。
要は、いろいろな所に潜む危険をどこまで予測し、対策を取る事が出来るかだと思う。何も予測できず、対策もとらなければ、山よりも街中の方がはるかに危険がいっぱいである。

私は、今日歩く予定のコースは頭の中に入っており、道がぬかるんでいたりしても、通常の注意を払っていれば危険はないコースであること、また今日の天候は急速に回復することも計算に入れての3週間ぶりの山行計画であったが、無惨にも打ち砕かれてしまった。

以前の雑感で「最悪、遭難して誰にも発見されることもなく死ぬことになっても、多分後悔はしないだろう、と言う気持ちで歩いている」と書いたが、私はどんな易しい山行でも何が起こっても対処できるように、万全の準備をしているつもりである。それだけの注意を払った上での万が一の遭難死であったなら、あきらめもつくという趣旨であったが、どうも、「私は無謀な登山をやっていて、山で死んでもかまわないと思っている」、と家族には受け止められていたのかも知れない。

今日の土壇場での山行取り止めは、家族の私を心配する気持ちの結果と理解し、厳粛に受け止めているが、それにつけても、今日の空は何と明るく、青く澄み切っていることか。

18才未満

020329


通勤電車内で、紳士然とした年配の人が、立派な革のカバンの中から、おもむろに分厚い週間漫画を取りだし、悠然と読んでいる風景に出くわすことが多い。

私にとっては、非常に幻滅する一瞬である。別に漫画が悪とまでは言わないが、時と場所というものがあるのではと思う。公衆の面前で、良識のある年代の人が平気で漫画を見ている図は滑稽と感じるのは私だけだろうか?

読むべき本は他にもたくさんあるのではないだろうか? 私は、通勤電車の中ではほとんど本を読んでいる。本を読める時間は片道で20分たらずであるが、それでも吉村昭の本100冊以上のほとんどを電車の中で読んだ。短い時間でも、毎日積み重ねると膨大な時間になる。電車の中で勉強して、資格を取る人もたくさんいると聞く。

疲れていて、せめて電車の中ではのんびりとしたいと言う人もいるのかも知れないが、大抵は同じ人が毎日のんびりしていることが多い。どうしても読みたければ、家で読んで欲しい。

森本哲郎氏が、日本人の幼稚化ということを発言されているが、まさに電車の中の光景にそれを見ることが出来る。本来、漫画は子供の読み物である。外国人は、日本人の大人が漫画を読んでいるのを見ると奇異に感じるという。私もそう感じる。

漫画を購入出来るのは、18才未満だけにしたらどうだろうか。

波長

020322


波長が合うと、同期し共鳴するのが、自然の摂理である。

先日、テレビでフジ子・ヘミングという人のピアノの演奏を初めて聴いた時に、鳥肌が立つほど共鳴した。
私は、このヘミングという女性は、いま日本でとても人気があるピアニストであることを全く知らなかった。しかし、ほんの2,3分間の短い演奏であったにもかかわらず、いままでのクラシック音楽では感じたことの無い素晴らしい感動を覚えた。まさにその曲が私の心の中に入り込んで、大きく共鳴した。

翌日、早速あちこちの店でCDを探し回ったが、どこも売り切れで、初めてその人気の高さを知った。手に入りそうもないので、店で注文をしておいたが、それでも早く聞きたくてたまらず会社の帰りに中古の店でやっと見つけた。

以前の雑感でも書いたが、画家の安野光雅の原画を初めて見た時にも背筋がぞくぞくした。この時も、私の体は絵の素晴らしさに共鳴していたのだと思う。

自然界の物質は、全てその物質特有の固有振動数というものがあるが、人間もその人特有の振動数(すなわち波長)を持っていると思う。
だからこそ、人それぞれ感じることや興味の持ち方が皆違うのである。

自分と相手の波長が近ければ、良い人間関係になれるだろうし、波長が合わないと、不協和音となって一緒にいるとお互いに疲れてしまう。また、波長が合わなくても、適当なズレの場合は、時には打ち消し合ったりもするが、お互いに強め合い、何とか上手くやって行けるのだと思う。

しかし、この波長は安定度が悪く、いつも一定ではない。その日によっても波長は変化し、また加齢と共に波長がずれて行き、いままで若い時には何の興味を持たなかったものに興味を覚えたり、好きになったりする。ある時突然ある人を好きになったりするのも、波長のズレのせいかも知れない。

ボランティア

020303


今朝、テレビで、ボランティアに関するとても心に残る良い番組を見た。

パソコンのボランティアではなく、重度のあるいは余命幾ばくもないような障害を持った子供たちとその家族に、喜び、楽しみ、励ましを与えるボランティアについてである。

これは、アメリカでの話である。
アメリカおよびアメリカ人の心の豊かさ、懐の深さ、思いやりの深さを感じさせる番組であった。(番組のタイトルは、「心を癒す魔法の国」となっていた。)

この組織を運営しているのはNPOであり、その代表をされている方は、自分の資産全てをなげうって広大な土地を購入し、そこに色々な企業からの寄付でテーマパーク、招待した家族のためのヴィラなどの設備を建設し、毎年米国内のみならず、全世界から、障害を持った子供とその家族を無料で招待して、苦しみを忘れ楽しい一時を過ごす機会を提供しているという。日本では決して考えられないほどの、家族に対する心配りがされている。

そこで働いている人たちも勿論全てボランティアである。ボランティア活動の保険も自分持ちである。

そこで働いている人の話で、自分は自分に無理のない範囲で出来るだけの事を、ありのままの自分を捧げていると言っていた。また、ボランティア活動においては相手への思いやりが大切だとコメントしていた。
相手への思いやりという言葉は、日本人的な感じがするが、これをアメリカ人の口から聞くと、やはりこれは人類全てに共通の感情なのだと知り、嬉しかった。

また、このNPOの代表の方が、「私は他の人のためにではなく、自分のためにこれをやっている。」と明言していた。この言葉にちょっとショック(ネガティブな意味ではなく)を受けたが、その理由は、「自分がこのような活動を行うことによって、自分自身が充実感を得ることが出来るから。」と言っていた。

ボランティア活動というものの本質を述べているような気がする。

(このNPOのHPは、http://www.gktw.org/です。英語のサイトですが、興味のある方はどうぞご覧下さい。)

子供の疑問

020219


今朝の電車通勤途中のある駅で、親子連れが乗ってきて、私が座っていた席の前に立った。4,5才位の男の子とお母さんだった。

乗ってくるなり、男の子はお母さんに対して、大きな声で質問の嵐だった。なんでこの電車は東神奈川までなの、なんで向こうの電車(別の会社線)は遅いの、なんであの電車は離れて行くの、どこまで乗って行くの、この車両は8号車って言ったけど9号車はあるの、なんでこの電車は揺れているの等々、子供の好奇心、疑問は次から次へととどまるところを知らない。

初めのうちは、お母さんも丁寧に答えていたが、そのうち答えもおざなりになってきて、最後には、「そうだから、そうなの!」という答えに変わってしまっていた。

電車の中で、子供が大きな声で喋っているための遠慮もお母さんにはあったのだと思うが、私の場合だったら、自分の子供に対してどう対応しただろうかと考えてしまった。私も、そのお母さんと同じようにもう質問は止めてくれと言わんばかりの答えを子供にしたかも知れない。

エジソンかアインシュタイか、どちらかは忘れたが、子供の時は、周りの人皆に嫌われるほどの質問をしていたと言う。そのような好奇心を大人まで持ち続け、あのような偉大な科学者になったのである。

やはり、子供の疑問に対しては、丁寧に答えてあげる事が大人の責任、義務なのだと思う。そのように接することによって、子供達は知識欲を満たし、更に好奇心をかき立てられ、将来の日本を担う大事な人材として成長していくのだろうと思う。

私の下車駅が近づいた頃に、私とその男の子の目が合った。私は、その男の子の質問を、本を読みながらもほほえましく聞いていたので、にこっと微笑んだら男の子もにこっと微笑みを返してくれた。でも、恥ずかしそうに母親の腕の陰に隠れてしまい、母親への質問もそれで終わってしまった。

大人も、子供に負けない位の疑問、好奇心をいつまでも持ち続けたいものである。

山行への心構え

020216


山には一人で行く事の方が多いが、一人で不安ではないか、とよく聞かれる。

いつも、一人の方が安心ですね、と答えることにしている。ただし、安全ではないですけどね、と付け加える。

登山はグループで行くものと言われるが、グループの場合はほとんどの場合、歩くだけに専念する事になってしまう。

ちょっとした良い景色、しばらく佇んでいたいような場所、きれいな花などに出会うと足を止めてじっくりと見たくなるが、グループで行くとそんな感傷に浸る暇などないし、皆のペースを乱してしまうことになる。
特に、デジカメで色々と写真を撮るようになってからは、絶対に一人でないとダメである。

一年ほど前に、ホームページのBGM用にと、丹沢の山中でせせらぎの音を録音したときに、山の中では思いもかけないほどの色々な鳥の声が聞こえることを発見した。それ以来、私はがむしゃらに歩かずに、五感を働かせて回りをきょろきょろしながらのんびりと歩くことに努めている。

しかし、私は、数年前からS社の丹沢の地図に赤い線で書かれた全てのコースを踏破することを目標に歩いているので、一日中誰とも会わないことも多い。

だから、私は山中で何らかの事故や体調の異変により動けなくなり、ビバーク(露営)せざるを得ない状況になっても生き延びられるように、いつもツェルト(簡易テント)、笛、固形燃料、レスキューシート等をザックの中に入れてある。

そもそも私が、携帯電話を持つようになったのも、私が一人で山に行くために、心配して家内に持たされたものである。携帯電話用の外付けの充電池も持参している。また、当然山の保険にも入っている。

得てして準備が良い人ほど遭難はしないもの、と思いながら、いつも使う出番のないものがたくさん入った重いザックを背負って歩いている。

でも、最悪、遭難して誰にも発見されることもなく死ぬことになっても、多分後悔はしないだろう、と言う気持ちで歩いている。(家族にこの雑感を読まれると、ちょっと困る。)

大学の先生

020202


先日、会社の仕事で、ブロードバンド・アクセスネットワークの関係の講演会を聴きに行く機会があった。

講演会のトップバッターは、ある有名大学の大学院教授の基調講演だった。 この先生は某新書からIT関係の本も出している電子メディア論の第一人者ということだったので、どんな話が聞けるのかと期待していた。

ところが、どうでもいい話ばかりが延々と続き、一体いつになったら本題のテーマに繋がるのかと思いながら聞いていたが、いつまで経っても誰もが知っている、あるいは分かっている様な話に終始し、講演を聴いているのが馬鹿馬鹿しくなって来た。早く終わってくれとばかり考えていたので、内容もほとんど覚えていないくらいだった。

聴きに来ている人が素人ならいざ知らず、皆その方面の専門家ばかりである。ましてやこの不景気の中、3万円という高額な金を払って聴きに来ているのである。身振り手振りを交えて、喋るのは確かに慣れてはいる風ではあったが、内容的には、私でももう少しはましなことを喋ることが出来るのではと思ったくらいである。それほどひどかった。(もし、自分の金を払っていたのだったら、金を返せと叫んでいたかも知れない。)

以前にも、同じ大学の経済学部の教授の話を聞いたことがあったが、この先生の話もひどかった。 同じ事をただ表現を変えて、何度も何度もくどい程に繰り返し、1時間の講演を消化していた。

このような先生は、ほんの一部だとは思うが、大学の先生というのは、重箱の隅をつつくような、どうでもよいことや些細なことに色々と長々と解説を付けて、ああでもないこうでもないと言う議論を展開し、これこそが研究だという顔をして、時間を稼いだり、執筆本のページ数を増やして、印税を儲けたりする人種なのだろうか?

講演の帰りの電車の中で、その日テキストの一部としてもらったその先生が書いた本を、期待せずに読み始めたのだが、案の定つまらないことに長々とページを割いており、読む気がしなくなり、途中で読むのを止めてしまった。

このような先生の授業を毎日聴かなければならない学生に同情を禁じ得ない。学生の学力アップの前に、先生のレベルアップが必要なのではと感じた一日であった。

人間関係

020130


私のホームページに、山のパノラマ写真をアップした。

新しいソフトを利用しての作成だった。ソフトの使い方を知ることに一生懸命で、本屋さんで立ち読みをしたりしながら、やっとページが出来上がりアップした。

しかし、会社で一緒に仕事をしている人にそのパノラマ写真を見てもらったところ、もっと縦に広い画角の写真だと更に迫力が出たのでは、とのコメントが即座にあった。その日、帰宅後そのパノラマを見直し、確かにその通りだと思った。 さらに翌日、別の人にも見てもらったら、全く同じことを言われた。
ホームページを見てもらった2人が2人とも、異口同音に同じコメントをしたと言うことは、ほとんどの人がその様に思うのだろう。

とにかく、新しいページを作り、早くホームページにアップすることばかりを考え、そのパノラマを見た人がどの様に感じるかと言うことにまでは、全く頭が回っていなかった。客観的な目を失っていたのだと思う。物事はやはり一呼吸置いてから、独りよがりの思いこみがないかどうか、もう一度考えるてみることが大事だと痛感した。

皆そうだと思うが、自分のやった事に対して批判をされることはおもしろくないもので、例えその意見が正しいとしても、言われたことにはあまり従いたくないものである。でも、私自身コメントされたことに納得していたので、批判をされたというよりも率直な意見を言ってくれたと、素直にその意見を取り入れることが出来た。

仕事上のことならともかく、私的な事については何か言いたいことがあっても、相手に遠慮して言わないことが多いものであるが、率直で建設的な意見を言ってもらったことを有り難いと思った。
また、お互いに率直に意見を言っても、言われても気分を害することのない人間関係であることを嬉しく思った。

人間関係は、すべからくこのようにありたいものである。

(その後、早速パノラマ写真に手を入れ、少しだけ画角を広げた。でも、これ以上は無理なので、あとは撮り直すしかない。)

どんな人からも学べる

020114


このタイトルは、今朝の新聞に載っていた、シンガーソングライターのイルカさんの言葉である。

「年上の人だけでなく、年下だったり、子供だったり、どんな人からもたくさん学べる。」と書いている。また、彼女はいま色々な分野についての勉強会に参加しているそうで、「学ぶ楽しさを感じている。学ぶって、本当はワクワク、ドキドキするものだったのですね。」とも書いている。

私は、最近はボランティアでパソコンの講師役になったりしてはいるが、別のところでも書いたように、私は教えるとは思っておらず、自分が教わっていると感じている。私が講師を務める相手は私よりも年輩の方が多いが、それらの方々からも、別のことを教わることが出来る。それは、自分の教え方についてだったり、私がやっていないやり方をその方がご存じだったりする。その他、色々な考え方があることも学ぶことが出来る。

学ぶ楽しさについては、イルカさんが書いている通りだと思う。私も色々なところで、その事を感じている。

随分と前になるが、毎年夏頃に、ある大学で宇宙論についての公開講座があり、何年間か通ったことがあった。高校生くらいからかなりの年輩の方々も受講していた。しかし、講義を理解するには大学の物理程度の知識が要求される話が多く、久しぶりに学生気分に浸ることが出来た。

講義の内容は、私が興味を持っていた宇宙の起源についての話で、相対性理論や素粒子論なども出てきて毎回ぞくぞくとするような興奮を覚えながら講義を聴いていた。 自分が、実際に学生だった頃には、そんな興奮を覚えながら授業を聞いていたことは一度もなかった。

大学卒業後、十数年近くも経ってから、まさに「学ぶ楽しさを感じている。学ぶって、本当はワクワク、ドキドキするものだったのですね。」だった。

その時は、心底学生時代に戻りたいと思った。

山行後の後かたづけ

020106


今日、一昨日の初山行の登山道具の後かたづけをした。
いつも、私は土曜日に日帰りで山へ出かけ、日曜日の午前中に後かたづけというパターンである。

泥で汚れた登山靴は、十分乾かしたあと固く絞った雑巾で泥を拭き落とし、革用の栄養剤のスプレーを吹き付け、乾いたらブラシをかけ、更に防水スプレーを施す。その後、丸めた新聞紙を靴の中に入れて保管しておく。
2本のストックは、全てバラバラにして乾いたタオルで汚れを取り、ポール内の湿気を取りまた元通りにする。
その他にも、スパッツを水洗いをしたり、たまにはザックを中性洗剤できれいにしたりと、山行後の後かたづけはいつも半日がかりである。

一昨日の山行では、一部雪が残っていてアイスバーンになっていたところもあり、これからの時期はザックに軽アイゼンを常に入れておく必要があると思った。

今日、乾かした荷物をザックの中に戻し、さらに軽アイゼンや、いざというときの為の固形燃料をザックの中に入れたりしながら思ったのは、時間のかかる面倒な後かたづけをしているのではなく、次回の山行の準備をしている気分だった。そう思うととても楽しく、幸せな気分になった。

同じ事をするにしても、考え方次第で苦しくもなり、とても楽しくなったりするのは不思議な気がするが、これはとても大事なことだと思った。
毎日の生活において、いつもいつも楽しいことばかりではない。苦しく、辛いこともあるだろう。でも、それは苦しいとか、辛いとか思うから、そう感じてしまうことも沢山あるのではないだろうか。その苦しいこと、辛いことは、自分をレベルアップする為、楽しいことをするための準備だと思えば良いのかも知れない。

週の後半になると会社の仕事に力が入って来るのも、週末に楽しいことが待っているから頑張れるのと少し似ているかも知れない。(ちょっと違うけど)

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山歩き

011227


先週、一ヶ月ぶりに丹沢に行った。早朝に車で東名を飛ばし、7時には登山口に着いた。
移動途中はまだ暗く、闇夜の中でかすかにそのシルエットを見せていた富士山も、登山口に近づくにつれ、やっと朝日を浴びて赤く焼けたその雄姿を現した。

登山口で車から降り立つと、急にまるで冷凍庫の中に入り込んだような、肌を突き刺すような冷たい空気に、思わず体がぞくっとした。遠くの山々を見ると、朝日を浴びた木々が鮮やかに目に飛び込んで来る。

1ヶ月間も山を歩かなかった時はいつもそうなのだが、以前と同じように歩けるのか、来なければ良かったのではとの思いが一瞬頭の中をよぎる。
しかし、この日はなぜか違っていた。この凛と張りつめた空気に包まれ、遠くの山々を見た途端に、「ああ、やっぱり来て良かった。 また、今日も歩ける。」と心から思った。さきほどぞくっとしたのは、寒さからではなく、武者震いだったに違いない。

凍り付くような冷たい空気を頬に感じながら歩き始め、周囲の山々、木々を見ながら、また自然の中を歩けることに感謝していた。

信頼関係

011217

 

何事であれ、信頼関係は重要であるが、会社の仕事とボランティア活動を比較すれば、会社の仕事は金による相互の繋がりがより密接であるが、ボランティア活動は相互の信頼、思いやりによる結びつきが一番大切なことだと思う。

お互いの信頼と思いやりがなければ、誰もボランティアを受けたいとは思わないし、またボランティア活動を行いたいという気持ちも起こらない。

ましてや、会社の仕事ではなく、ボランティアだから、活動を行う方も受ける方もいい加減でも良いと言うものでは、決してない。また、ボランティアを受けるものが優位で、ボランティアを行うものが下位なんてこともない。お互いに誠心誠意、社会ルールを守り、お互いがやるべき事をきちんと実行すべきである。

実際の活動を行う時に、その時の気分で何の連絡もなく欠席したり、予定を変更したりというのは社会ルールを破るものであり、相互の信頼関係を壊すことになると思う。
そんないい加減な人たちまでを相手に、ボランティア活動をしたいとは思わない。

ボランティア活動の陰には、自分の貴重な時間を割いて、皆の為に一生懸命動き回っている方々がいることを決して忘れないで欲しい。
(誤解を避けるために、加筆修正をしました。 12/23)

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