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旅の計画


旅には、3つの楽しみがあると言われる。
1つは、計画の楽しみ。2つめは、旅そのものの楽しみ。3つめは、旅から帰ってきてからの記録の整理をする楽しみである。

今は、最初の1つめを楽しんでいる。
旅というよりも山登りであるが、今年の夏休みは、初めての北アルプスに行こうと考えている。3千mを越える山は、入社後すぐに行った富士山以来登ったことがなく、2年前に登った南八ヶ岳の赤岳は3千mには届いていなかった。3千mを越えようが、越えまいが大差はないが。

今回予定している行き先は、燕岳、槍ヶ岳、上高地である。山好きな人なら何度も行ったことのある場所だと思うが、私はそれほどの山好きでないので、すべて初めて訪れる場所である。
私は、JRの時刻表を見ながら頭の中でスケジュールを組み立てるのが好きで、学生時代に一人で九州を旅した時も、何日か徹夜をして色々なコースを考え計画を立てたことを覚えている。
頭の中でシミュレーションを繰り返しながら、その時、その場で何が必要になるかを考えて、携行すべき物のリストも作って行く。だから、何かが無くて困ったということは余り無い。ただし、その代わり実際には使わずに済んだというような余計な物が増えて、荷物が重たくなるのが私の性癖である。これは日常生活でも同様で、どこかに出かける時は手ぶらという事はまずない。家内も同様の性癖のようである。

今回は、せっかく初めて訪れる場所なので、各駅停車の鈍行でのんびりと足を前の座席に伸ばし、車窓に流れる風景を楽しみながら駅弁を食べ、早めの時間に松本市に着いて松本城の見物をしたり、帰りには上高地の散策もゆっくり楽しんでみたいと思っている。松本か穂高の駅構内で夜を過ごすこともやってみたい。

山では長丁場を歩くことになるので、体力(金も)が続くかどうか一抹の不安もあるが、その為に数日前から家の中で出来る体力作りを始めている。単独山行なので、十分事前の準備を行っているつもりである。これが、家族に心配させないためのせめてもの配慮かなと思う。

サンダル


昔ながらの名前ではなく、もっとそれらしくない洒落た名前があるのかもしれないが、若い人のサンダルが気になってしょうがない。
暑くなってますます通勤にサンダルを履く若い女性が増えているようだ。

何が気になるかというと、駅の階段でのあのカツ、カツという非常に硬く、大きな音である。まるで、わざとに力いっぱいサンダルを地面に叩きつけているとしか思えないようなスゴイ音をたてる。突然、後方ですごい音がし出すので、思わず振り返ってしまう。心臓にも良くない。

その様な時には、私は必ずその女性の顔を睨み付けるようにして見るが、当の本人は大きな音を立てていることには全く無頓着な顔をしている。取り澄ました顔をしている。もっとそーっと歩くことを知らないのだろうか。自分でも大きな音は聞こえているはずである。
ましてや、サンダルは脱げ易く特に階段の下りでは危険である。今までに何度か転びそうになったり、サンダルが脱げてしまった人を見かけている。あのような不安定な履物を、電車に乗る時にまで履くという神経が知れない。

もともとサンダルというのは、家の回りでちょっと用事をしたり、目と鼻の先の店に買い物に行くのに便利な、短い時間だけの履物として使われているものである。

ましてや、通勤というのは、男であれば戦場に出かけるようなものである。それを、サンダルなどのようなものを履いてお使い気分で仕事に出かけられては困るのである。

会社は、近くのコンビニに買い物に行くのとは訳が違うのである。

はやり目と老化


ちょっと前の話になるが、いわゆるはやり目に罹ってしまった。正式の病名はウイルス性角結膜炎というらしい。
感染元は娘からであった。娘はどこから感染したのか全く不明である。

病院でもらったパンフレットを見ると、まさに潜伏期間や発病期間が全くパンフレットに書いてある通りであった。
子供の頃に、結膜炎はプールなどでうつるなどとよく言われていたが、それほど大変な病気という意識はなかった。
しかし、実際に罹ってみるとそれは大変な病気だった。潜伏期間は1週間で、発病期間は2週間であった。

最初に娘が罹り、その一週間後の全く同じ日に私と息子が発病してしまった。息子とは3回ほど一緒に病院通いをする羽目になった。
娘は発病して1週間後くらいの時には、両目が開けられなくなり2,3日ずっと寝込んでいた。その様子を見ていたので予測がついてはいたが、息子の方が同様に目が開けられなくなった。
私の方は、幸いにもそこまでにはならなかったが、涙が四六時中出てきたり、目から血が出たり、光が眩しくパソコンの画面を見るのにもサングラスをかけなければならないほどであった。その時の目はとても人様には見せられない、まさにグチャグチャな目であった。
この病気は感染力が非常に強力なため、息子は学校から出席停止を言い渡された。 私は会社からは特に出社禁止とまでは言われなかったが、とにかくひどい状態だったので、大きな会議の準備があったにもかかわらず休まざるを得なかった。

発病中の後半には、炎症のために物がかすれて見え、新聞なども読むことが困難になった。病院の先生には、大人になってからこの病気にかかると、稀に目に後遺症が残ることがあると脅かされた。3週間目になって、やっと炎症も治まり親子そろって会社、学校へ行けるようになった。

しかし、3ヶ月ほど経った今でも涙が突然出てくるという後遺症が残っている。なぜか、朝自転車で駅に行く途中に急に涙が出てきて、ハンカチを取り出す間もなく、涙が膝の上に落ちたり、会社から帰り、家の玄関に入る直前に涙が急に出て来たりする。

また、これも後遺症だろうと思うが、仕事中にどうしようもなく目がしょぼしょぼして来て、目薬を注すようになってしまった。今までは目薬のお世話になったことはほとんど無かったのだが。それから、老眼の眼鏡を掛けなければよく見えない頻度も多くなった。

最近思うのだが、年を取ってきてから病気になると、若いときとは違って完全に治りきらずに、どこかに後遺症が残り、また他の病気をするとまた別の後遺症が残り、というような事を繰り返し、人はどんどん老化を早めて行くのではないだろうかと考えるようになってきた。

だから、当たり前のことながら、年を取ってくると益々病気にならない努力が若い人よりも必要になってくるのではないかと思う。治る病気だからと軽く見ていると、色々な意味での後遺症が蓄積されて行くことになる。その良い例が、病気や怪我などで、しばらく病院のベッドで寝ていると、病気がたとえ治ったとしても、歩くことが覚束なくなったりすることである。

やはり、積極的な健康維持管理が益々大切になってくる。
山歩きを止めてはいけないと、ただ一人思う今日この頃である。

マーフィーの法則?


職場のフロアーの変更、縮小が予定されており、そのために書類の量を半減しなければならなくなった。

とてもそんなことは無理だと思っていたが、実に簡単だった。何のことはない、ただどんどん捨てるだけだった。半減どころか、十分の一くらいになってしまった。貴重な書庫スペースの大部分が、ゴミ溜として使われていたことに唖然としてしまった。

「あればよい、なくてもよいなら捨てましょう」というスローガンもあるが、自分が作成したり収集した資料や書類は愛着があってなかなか捨てがたいものである。
しかし、時代の流れが速いこともあるかも知れないが、2,3年前の資料はほとんど役に立たないし見ることもない。ましてや、前任者の古い書類は全くといっていいほど開かれることはない。その中にどんな書類が入っているのかも勿論知らない。にもかかわらず気休めに取ってあるだけである。

マーフィーの法則にあるかどうかは知らないが、いざ捨てるとその直後に大抵「あっ、あの書類は捨ててしまった!」ということがままある。書類整理をする前にも、職場の同僚ときっとマーフィーの法則が起こるよと話をしていた。

やはり法則は正しかった。予想通りに起こってしまった。
部外の人がそれを利用していたのだった。捨てたことに多少の罪悪感を感じないでもなかったが、数年に一度あるかないかの必要性以上に、捨てることが大事だなのだと自分に言い聞かせた。

整理の秘訣は、捨てることだと言うが、至言である。

次は家の中の整理か? これはなかなか至言通りには行かない代物ではある。

講演会


先日、会社でジャーナリストの櫻井よしこさんの講演会を聞く機会があった。
十数年前の夜のニュース番組「きょうの出来事」のニュースキャスターをやっていた人である。

講演を聴いていて、非常に共感するところが多々有った。 特に、
1)どうしようもなく下品な某議員、限りなく下品な某議員 (実名は伏せるが、地盤を乗っ取った北海道選出議員)
2)ソ連の戦争終了後の日本への侵攻は卑怯 等々。

また、今話題の田中真紀子外相についても色々と述べていた。彼女の考え方の原点はやはり父である田中角栄にあり、田中外相が中国寄りの発言をしている事の問題を提起していた。 田中外相は中国側におもねる事無く、逆に中国とのパイプを利用して中国を諫めることをすべきだとの櫻井さんのご意見は、私も全くその通りだと感じた。(櫻井さんの為に言っておくが、彼女は小泉首相と同様に田中外相を好きだと言っていた。)

多少言動に問題はあるものの、そうすることによって、田中外相の人気は小泉首相の人気と共に、更に上がっていくものと思う。
田中外相が外務省の古い殻、従来の慣習をうち破ろうとしていることに、私も大いに期待をしている。そこには、日本、あるいは日本の会社の体質を変える事にも通じるものがあると思うからである。あちこちにはびこっているくだらない前例主義を早く捨てて欲しいものだ。

櫻井さんが車に乗って、会社を出られる直前に握手をした。自分のひいきの人と握手をした後は、手を洗いたくないと言う気持ちが多少分かった。

注意力


昨日例によって丹沢を歩いたが、初めて気が付いたことがあった。それは、今まですでに何度も目にしていたはずの標識である。

それは、川を渡る橋の手前に立っていて、今までに何度かそこの川の水で体を冷やした場所であった。昨日も余りの暑さで、川の水でタオルを濡らしていたら、他の中年女性2人組の人から、「おじさん、ここに名水があるよ」と声を掛けられた。私よりも、明らかに年輩のおばさんに、おじさんと言われ少しムッとしたが、確かに指を指す所に水が出ており、直ぐそばに「全国名水百選 秦野盆地湧水群水地」と書いた背の高い立派な標識が立っていた。

その標識は新しく立てられた様子もないので、今までずっとそこにあったはずである。それなのに何故今まで気が付かなかったのか、不思議でしょうがない。

人間とは不思議なもので、実際には見えていながら、見ていないとか、聞こえていながら、聞いていないということが良くある。
町中を歩いていても、普段全く用事のない店には関心が無く、何の店かも知らない。 ところが、いざ必要になり、探し回ってこんな所にこんな店があったのだと気づいたりすることがよくある。
先日の、丹沢で沢山の鳥の声に気が付いた時もそうであった。おかげで最近は、歩いていて鳥の声によく気が付くようになった。

関心がある事には、すぐに気がつき、すぐに覚えたりするが、関心がないことには、気が付かないしましてや覚えられない。何でもかんでも気が付きすぎると、人間疲れるものだ。 疲れないために、体が自動的に防御機能を働かせているのだろう。

エライ人が「私は聞いていない!」とか、「私は知らない!」とか言うのも、防御機能を働かせているからであろうか?

IT


昨日、パソコンショップに寄ったが、相変わらず沢山のお客が来ている。その中には、店員さんに対してかなり初歩的な質問をしているシニアの方も多い。
しかし、私はいつもそのような光景を見て不安に思うことが多い。 それは、もしそのような年配の方々がいざパソコンを購入しても本当に使えるのかという不安である。 買ったけれども、ホコリをかぶって使わない、使えないままになってしまっている人がどの位いるのだろうか。

売る側の店の人は、当然そのような危惧は全く口には出さない訳で、誰でもみんなやっているのだから大丈夫ですよ、慣れれば簡単ですよ、というような甘いことを言って買ってもらおうとしているはずである。

しかしながら、以前に我が家で実際に家族にパソコンを使わせようとして、教え始めたが、全く知らない人に教えるのは、並大抵ではない事を実感した。 教えられる側にも、相当な努力が必要であろうが、教える側にも怒り出さない忍耐力が必要なこともわかった。

パソコンを買っても、家族の中に多少パソコンを知っている人がいればまだしも、そのような人がいなければ、いったんトラブルが起きると、恐らく自分で対応するのは百%不可能だろうと思う。

現在、IT講習会が各地で行われ出したが、実際にこの様な講習会に出てくる人は、今のところ基礎の基礎は家で覚えて来る人が多いようである。 しかし、それでもちょっとしたトラブルが起こるともうお手上げとなる。 講習会で1度だけ習っても、そう簡単には覚えられない。 老人力が付いてきているから、しばらくするとすぐに忘れてしまう。 IT講習会のフォローが重要な役割を持って来ると思う。

私が参加しているボランティア団体は、このようなIT講習会を受けた人達のフォローをしようというのが主目的である。しかし、市側とのいろいろな確執、教えるにあたっての設備の問題など、まだ実際の活動がスタート出来ない状況にある。

先週、団体内での勉強会が終わった後、駅に向かう途中で、ちょうどIT講習会を終えてシニアの女性達が会場から出て来るのに出会った。 つい、私たちがフォローして差し上げますよと言いたくなった。
困っている人が沢山いるはずなのに、なかなか出番が無いというのもおかしな状況である。

父娘


ずっと昔に、父と娘が仲良く二人で街へ出かけ、娘が父の腕に手を回し、娘にねだられて父がデパートで何かを買ってあげるという場面をテレビで何度か見たことがあった。自分もいつかはそんな時が来るのかなと思ったりしたことがあったが、腕に手を回すまでは行かないが、今日その時が来たようだ。

娘が、20歳の誕生日を迎え、MDを買ってやることになっていたので、二人で車に乗って街へ出かけた。ちょっと離れた駐車場に車を入れ、二人で並んで話をしながら、電気店に向かった。電気店の中でも、MDだけでなく、今年の夏に娘が旅行に行くというので、旅行先で必要な変圧器、ヘアドライヤー、旅行用トランクなども一緒に見て回った。
とりあえず、今日はMDだけを買ったが、そのあと別の店にもトランクを見に行った。 お腹もすいたので、同じ建物内にある店で私はアイスを、娘はクレープを頼み、ひとつのアイスを二人で食べた。
娘とは、ごく普通の会話が出来るようになり、大人になったものだなあと思うと同時に、時の流れの速さをつくづくと感じた。

今日は、夕方にはにわか雨が降るかも知れないとの天気予報であったが、空は明るかったので、私は傘は持たずに家を出たが、娘は傘を持ってきていた。 娘に、もし雨が降ったら、一緒に傘に入れてくれと言うと、「とんでもない。絶対イヤだ。」というので、「一緒に買い物に来ているのになぜだ」と言うと「今日はMDを買ってもらうから、一緒に来ているだけなんだから」と。

満員電車


今日は夕方になってから非常に激しい雷雨となり、電車が徐行運転をしているらしく、会社を出て駅に着いてみると沢山の人がホームで電車待ちをしていた。

この蒸し暑いのに、超満員の電車に詰め込まれる事を思うとうんざりした。 しかし、最初の電車が来てもすでにぎゅうぎゅう詰めになっており、ホームで待っている人の半分位しか乗ることが出来なかった。私も、乗れなかったが、風が冷たくなりうっすらとかいた汗を鎮めるのにちょうど良いと思い、本を読みながら次の電車を待った。しかし、結局次の電車も超満員で乗れなかった。仕事で疲れた体を、無理矢理電車に乗り込ませていった人たちを見ると、感心してしまう。

そこで、反対側の上りの電車に乗って、終点まで行き折り返してそのまま電車に乗って来ることにした。上りの電車はいつものことながら、夜はがら空きである。 上りの電車を利用する人と、下りの電車を利用する人は料金に差をつけるべきだといつも思うが、おかげでゆったりとシートに座りながら本を読むことが出来る。 終点まで行って更に折り返して来るので、ずっと座ったままで読書に集中でき、しかも人が少ないので、電車の中はひんやりとする位クーラーが効き、快適な読書の時間を持つことが出来た。

いつも利用する駅では、もうすでに乗り込んでくる乗客も少なくなっており、混雑はとっくに終わったようであったが、おかげで今日はずっとすいた電車に乗って帰宅することが出来た。たまには、こんな遠回りも良いと思う。

当然の事ながら、帰宅までの時間はいつもより余計にかかったが、おかげで今日は99冊目の吉村 昭の本を読み終えることが出来た。
記念すべき100冊目の本は、「魚影の群」になりそうである。

電子メール


今や電子メールは、仕事の上では無くてはならないものとなっている。 会社においては、ほとんどの連絡や指示、報告などが電子メールで行われる。

個人のメールも然りで、手紙よりもはるかに気楽にメールを出せるし、手紙のように2,3日も待つこともなく、ほとんどリアルタイムで相手に伝わる事が最大のメリットであろう。 仕事だけでなく、日常生活でも欠かせないものになって来ている。

もう5,6年以上も前になるが私も、掲示板で知った何人かの人としばらくメールでやりとりをしていた時期があった。 全く知らない相手ということもあって、本音ベースで自分の考えや感想をお互いに書き合うことが出来た。しばらくメールを交換していると、相手の性格もかなり分かって来て、そのような人同士が、実際に会ってみようと考えるのも不思議ではないと思う。
メル友に殺されるなどと言う物騒な世の中になってきているのは、非常に残念で迷惑な話ではあるが。

話は変わるが、昨日は北海道から東京に出てきた(熊が出てきたわけではないが)兄夫婦と1年半ぶりに都心で会った。一年半ぶりなのに、長く会っていないという感じが全くしなかった。なぜだろうと考えていたが、多分兄とはメールで一年くらい前から時々近況を伝え合っていたために、ブランクを感じなかったのだろうと思う。
これも電子メールだから頻繁に近況を伝えることができたのであり、電話ではこうは行かない。
女の姉妹ならいざ知らず、男の兄弟同士でいつも長距離電話をしあうなんて図は、サマにならない。 周囲に気持ち悪がられるだけであろう。

携帯電話


携帯電話の普及の速さには目を見張る物がある。日本全国で6千万人を超えていると言うから、年寄りや幼児を除いてほとんどが持っている計算になる。

これだけ普及していると、その使用時のマナーも気にかかる事が多くなってくる。

電車の中で電話がかかってくると、普通の神経の持ち主なら、周囲の人に済まなそうに小声で応答すると思うのだが、会社の事務所の中にでもいるかの如く、平然と大きな声で応答している人がいる。そばで本を読んでいるとびくっとしてしまう。ペースメーカを付けていなくても、心臓に良くない。

また、電車の中で、電車が何駅も通過しても、まだずっとしゃべり続けている若者がいると、電話代が嵩むのになんでこんなに長い時間携帯電話で喋る必要があるのかと腹立たしい思いさえしていた。聞こえてくる電話の内容は、私にはどうでもいい内容にしか聞こえないのだが。

しかし、最近はその見方も変わってきた。どんどん喋ってくださいと言う思いである。ただし小声でお願いしたいが。何故なら、彼ら若者がどんどん使って、携帯電話会社にお金を沢山払ってもらえると、電話会社は電話料金を安くしてくれて、結局私たちにメリットが出てくると気が付いたからである。

電車の中ではペースメーカに悪影響を与えるので、電車の中での携帯電話は勧められないが、電車の中以外ではどうぞ飽きるほど喋ってください。

きっかけ - 山


絵を始めたことはすでに書いたが、私は人物画などは自信もなくあまり興味を持たなかった。 描きたいのは自然や田園の風景であった。そのためには自然のあるところへ行かなければならない。

その頃は、一眼レフカメラもかじっていたので、欲張って水彩画と写真の両方の被写体があるところへ行きたいと考えていた。
しかし、病気のせいでずっとほとんど運動らしきことをしなかったために、体力もなくなっていた。 ずっとこのままで良いのだろうかと考えていた矢先でもあり、水彩画と写真の道具を持って近くの野山へ出かけてみようと思い立った。 森林浴は体にも良いだろうと、勝手な解釈をしていた。 医者には勿論内緒にしていた。

手始めに、近くにある標高の低い高尾山や城山などのあたりにハイキング気分で行ってみた。 半日くらい歩いたり、どこか気持ちの良い広々としたところでシートを広げ横になったり、スケッチをしたりして、夕方に家に帰って来たがほとんど疲れを感じず、爽快な気分だけが残っていた。
翌日になっても、疲れを感じることはなかった。まさに、森から精気をもらったという感じであった。それからたびたび出かけたが、いつも家に帰ってきても心地よい疲れだけが残った。あの、心地よい疲れというのは、何とも言えず気持ちがいい。そんなときにビールでも飲めばもっと気持ちよくなるのであろうが、残念ながら私はアルコールは全くダメである。
それからは、丹沢方面にも足を延ばすことになった。

しかし、丹沢の山の中でじっくりと腰を落ち着けてスケッチをしていると、明るいうちに下山が出来なくなることに気が付いた。 それで、初めのうちは大まかなスケッチだけをして、色付けは家でやろうと思ったが、いざ家で色を付けようとしても何色だったのかさっぱり思い出せない。 やはり色は山で付けなければダメだと思い、子供から父の日のプレゼントでもらった水彩色鉛筆を持って、山に向かった。
しかし、やはり絵を描いていると時間がかかるので、スケッチはそこそこにして家に帰る事が多くなった。

そうこうしているうちに、重たいカメラもリュックから出して、徐々に山を歩くことに重点が移っていった。相変わらず、山から帰ってきた後は、心地よく、翌日も体が非常に調子よく感じられた。 血液検査をしても、ひと頃に比べて薬を打たなければならないほど、具合が悪くなることは少なくなった。

これが私が、山に魅せられる事になったきっかけだった。でも、おかげで今は水彩画はそっちのけになっている。