「雑感」カテゴリーアーカイブ

人間関係

020130


私のホームページに、山のパノラマ写真をアップした。

新しいソフトを利用しての作成だった。ソフトの使い方を知ることに一生懸命で、本屋さんで立ち読みをしたりしながら、やっとページが出来上がりアップした。

しかし、会社で一緒に仕事をしている人にそのパノラマ写真を見てもらったところ、もっと縦に広い画角の写真だと更に迫力が出たのでは、とのコメントが即座にあった。その日、帰宅後そのパノラマを見直し、確かにその通りだと思った。 さらに翌日、別の人にも見てもらったら、全く同じことを言われた。
ホームページを見てもらった2人が2人とも、異口同音に同じコメントをしたと言うことは、ほとんどの人がその様に思うのだろう。

とにかく、新しいページを作り、早くホームページにアップすることばかりを考え、そのパノラマを見た人がどの様に感じるかと言うことにまでは、全く頭が回っていなかった。客観的な目を失っていたのだと思う。物事はやはり一呼吸置いてから、独りよがりの思いこみがないかどうか、もう一度考えるてみることが大事だと痛感した。

皆そうだと思うが、自分のやった事に対して批判をされることはおもしろくないもので、例えその意見が正しいとしても、言われたことにはあまり従いたくないものである。でも、私自身コメントされたことに納得していたので、批判をされたというよりも率直な意見を言ってくれたと、素直にその意見を取り入れることが出来た。

仕事上のことならともかく、私的な事については何か言いたいことがあっても、相手に遠慮して言わないことが多いものであるが、率直で建設的な意見を言ってもらったことを有り難いと思った。
また、お互いに率直に意見を言っても、言われても気分を害することのない人間関係であることを嬉しく思った。

人間関係は、すべからくこのようにありたいものである。

(その後、早速パノラマ写真に手を入れ、少しだけ画角を広げた。でも、これ以上は無理なので、あとは撮り直すしかない。)

どんな人からも学べる

020114


このタイトルは、今朝の新聞に載っていた、シンガーソングライターのイルカさんの言葉である。

「年上の人だけでなく、年下だったり、子供だったり、どんな人からもたくさん学べる。」と書いている。また、彼女はいま色々な分野についての勉強会に参加しているそうで、「学ぶ楽しさを感じている。学ぶって、本当はワクワク、ドキドキするものだったのですね。」とも書いている。

私は、最近はボランティアでパソコンの講師役になったりしてはいるが、別のところでも書いたように、私は教えるとは思っておらず、自分が教わっていると感じている。私が講師を務める相手は私よりも年輩の方が多いが、それらの方々からも、別のことを教わることが出来る。それは、自分の教え方についてだったり、私がやっていないやり方をその方がご存じだったりする。その他、色々な考え方があることも学ぶことが出来る。

学ぶ楽しさについては、イルカさんが書いている通りだと思う。私も色々なところで、その事を感じている。

随分と前になるが、毎年夏頃に、ある大学で宇宙論についての公開講座があり、何年間か通ったことがあった。高校生くらいからかなりの年輩の方々も受講していた。しかし、講義を理解するには大学の物理程度の知識が要求される話が多く、久しぶりに学生気分に浸ることが出来た。

講義の内容は、私が興味を持っていた宇宙の起源についての話で、相対性理論や素粒子論なども出てきて毎回ぞくぞくとするような興奮を覚えながら講義を聴いていた。 自分が、実際に学生だった頃には、そんな興奮を覚えながら授業を聞いていたことは一度もなかった。

大学卒業後、十数年近くも経ってから、まさに「学ぶ楽しさを感じている。学ぶって、本当はワクワク、ドキドキするものだったのですね。」だった。

その時は、心底学生時代に戻りたいと思った。

山行後の後かたづけ

020106


今日、一昨日の初山行の登山道具の後かたづけをした。
いつも、私は土曜日に日帰りで山へ出かけ、日曜日の午前中に後かたづけというパターンである。

泥で汚れた登山靴は、十分乾かしたあと固く絞った雑巾で泥を拭き落とし、革用の栄養剤のスプレーを吹き付け、乾いたらブラシをかけ、更に防水スプレーを施す。その後、丸めた新聞紙を靴の中に入れて保管しておく。
2本のストックは、全てバラバラにして乾いたタオルで汚れを取り、ポール内の湿気を取りまた元通りにする。
その他にも、スパッツを水洗いをしたり、たまにはザックを中性洗剤できれいにしたりと、山行後の後かたづけはいつも半日がかりである。

一昨日の山行では、一部雪が残っていてアイスバーンになっていたところもあり、これからの時期はザックに軽アイゼンを常に入れておく必要があると思った。

今日、乾かした荷物をザックの中に戻し、さらに軽アイゼンや、いざというときの為の固形燃料をザックの中に入れたりしながら思ったのは、時間のかかる面倒な後かたづけをしているのではなく、次回の山行の準備をしている気分だった。そう思うととても楽しく、幸せな気分になった。

同じ事をするにしても、考え方次第で苦しくもなり、とても楽しくなったりするのは不思議な気がするが、これはとても大事なことだと思った。
毎日の生活において、いつもいつも楽しいことばかりではない。苦しく、辛いこともあるだろう。でも、それは苦しいとか、辛いとか思うから、そう感じてしまうことも沢山あるのではないだろうか。その苦しいこと、辛いことは、自分をレベルアップする為、楽しいことをするための準備だと思えば良いのかも知れない。

週の後半になると会社の仕事に力が入って来るのも、週末に楽しいことが待っているから頑張れるのと少し似ているかも知れない。(ちょっと違うけど)

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山歩き

011227


先週、一ヶ月ぶりに丹沢に行った。早朝に車で東名を飛ばし、7時には登山口に着いた。
移動途中はまだ暗く、闇夜の中でかすかにそのシルエットを見せていた富士山も、登山口に近づくにつれ、やっと朝日を浴びて赤く焼けたその雄姿を現した。

登山口で車から降り立つと、急にまるで冷凍庫の中に入り込んだような、肌を突き刺すような冷たい空気に、思わず体がぞくっとした。遠くの山々を見ると、朝日を浴びた木々が鮮やかに目に飛び込んで来る。

1ヶ月間も山を歩かなかった時はいつもそうなのだが、以前と同じように歩けるのか、来なければ良かったのではとの思いが一瞬頭の中をよぎる。
しかし、この日はなぜか違っていた。この凛と張りつめた空気に包まれ、遠くの山々を見た途端に、「ああ、やっぱり来て良かった。 また、今日も歩ける。」と心から思った。さきほどぞくっとしたのは、寒さからではなく、武者震いだったに違いない。

凍り付くような冷たい空気を頬に感じながら歩き始め、周囲の山々、木々を見ながら、また自然の中を歩けることに感謝していた。

信頼関係

011217

 

何事であれ、信頼関係は重要であるが、会社の仕事とボランティア活動を比較すれば、会社の仕事は金による相互の繋がりがより密接であるが、ボランティア活動は相互の信頼、思いやりによる結びつきが一番大切なことだと思う。

お互いの信頼と思いやりがなければ、誰もボランティアを受けたいとは思わないし、またボランティア活動を行いたいという気持ちも起こらない。

ましてや、会社の仕事ではなく、ボランティアだから、活動を行う方も受ける方もいい加減でも良いと言うものでは、決してない。また、ボランティアを受けるものが優位で、ボランティアを行うものが下位なんてこともない。お互いに誠心誠意、社会ルールを守り、お互いがやるべき事をきちんと実行すべきである。

実際の活動を行う時に、その時の気分で何の連絡もなく欠席したり、予定を変更したりというのは社会ルールを破るものであり、相互の信頼関係を壊すことになると思う。
そんないい加減な人たちまでを相手に、ボランティア活動をしたいとは思わない。

ボランティア活動の陰には、自分の貴重な時間を割いて、皆の為に一生懸命動き回っている方々がいることを決して忘れないで欲しい。
(誤解を避けるために、加筆修正をしました。 12/23)

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好奇心

011210

 

先日、会社で作詞家の秋元 康氏の講演を聞く機会があった。「ブロードバンドインターネット社会について」というタイトルの講演であった。
本題の話には、特に目新しい事はなかったが、講演の最後に、氏のアイデア、発想はどうやって出てくるのかとの紹介があった。

氏の言葉を私なりに解釈し、以下に箇条書きにしてみた。

1)同じものを見ても、何も感じなかったり、思わなかったりする人がいるが、色々と考え、思って欲しい。
(自分が若いスタッフと一緒に行動していても、自分は色々と感じたり、思ったりするが、スタッフの人は何も感じないことがある。)
2)人の行動をじっくりと観察していると、色々なパターンが見えて来る。
3)普段からの観察力を養うことが大切。
4)物事に関心、好奇心を持つことが大事。

このような中から、色々なアイディア、コピーが生まれて来るようである。

やはり物事に関心、好奇心を持ち、自分の頭で感じ、考えることが一番大切なことだと思う。枯葉を一枚見ても、そこからは色々な思い、発想が出てくると思う。

私が、この雑感を書くことを思い立ったのも、日常生活の中で色々な事を目にしていると、色々と感じ、思うことが多く、それらを是非自分の言葉で残したいと思ったからである。
文章にすることで、自分の頭の中の漠とした考えが、霧が晴れるようにクリアになっていくのは、皆が経験していることだと思う。また、文章を書いている過程で、ああ自分はこんな考えを持っていたのだと発見することも多く、とても楽しみでもある。

常に、何事に対しても自分の考え、意見を言えるようになりたいものである。これからも、色々なことに好奇心を持ち、雑感を書き続けたいと思っている。

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小さな命

011202


我が家では、熱帯魚を飼っている。
ネオンテトラなど、どれもせいぜい体長3,4cm位の小さな魚ばかりである。私は、あまり大きな魚は好きではなく、以前もメダカだけを飼っていた時もあった。花の場合も、パンジーの様な小さなのが好きである。

熱帯魚は、ここしばらくはどれも元気で泳いでいたのだが、5日前から一匹の熱帯魚が水槽の底に沈んで、横になっていた。しばらく動いていなかったので、死んだのかと思い、水槽に手を突っ込んで取り出そうとしたら動き出したので、そのままにしておいた。2日目の夜に、もう死んでしまっただろうと思い、手を突っ込むとまた動き出した。そんな事を繰り返し、今日ですでに5日が経った。今までの場合は、2日目には死んでしまうことが多かったが、この熱帯魚は、エサも全く食べずに5日間も生き続けている。

こんな小さな命が、一生懸命生き続けようとしているのかと思うと、ジーンと来てしまった。犬や猫なら、動物病院へ連れて行くという手もあるが、外見上全く異常がない熱帯魚の場合はただ見ているしかない。

その熱帯魚を見ながら、思わず心の中で「がんばれ。」と励ました。
たかが魚と思われるかも知れないが、同じ命である。それは、犬や猫などのペットと同じである。愛する犬や猫に死なれて、とても悲しい思いをした人はたくさんいると思う。

以前飼っていたハムスターが死んだ時は、家族中で泣き、通夜もどきの葬式をして、巣箱として作った木の箱にハムスターを納め、食べ物もたくさん入れ、狭い庭の片隅に埋めてあげた。皆で手も合わせ、しばらくは花や水もあげていた。それ以来、死んでしまった熱帯魚もその近くに埋めている。

あと、一日、二日の命かもしれないが、頑張れ。

ミニコンサート

011125

 

久しぶりに、ピアノとバイオリンの生演奏を聴く機会があった。
私が所属しているボランティアの会の、メンバーの方がお住まいの所でのコンサートだった。メンバー7,8名が押しかけ、非常に贅沢な至福の一時を過ごさせて頂いた。

曲目はいわゆる名曲と言われる選曲で、クラッシックと日本の曲をそれぞれ5曲ほどずつの演奏だった。激しい曲や心に染み入る曲を織り交ぜ、飽きることなく聞き入ることが出来た。演奏者との距離も数mなので、弓が弦に触れる音までが全て耳に入ってくる。日本の曲も、バイオリンで聴くとひと味もふた味も違う良さが引き出されるような気がした。
曲の合間にはバイオリンの歴史や曲の紹介のお喋りも交え、とても和やかなミニコンサートであった。最後には、ピアノとバイオリンの演奏に合わせ、皆で日本の曲を歌ったりもした。

やはり、生の演奏というのはレコードやCDでは味わえない素晴らしさがあり、演奏者の気持ちがストレートに聞く人に伝わってくる。バイオリンの歴史は400年と言っていたが、やはりそれだけの価値はある音だと、素人ながらに思った。

今はIT不況や米国同時多発テロ事件などで殺伐として、いい音楽を聴くゆとりは無いのかも知れないが、こんな時にこそ心休まる名曲を聴き、精神的なゆとりと心豊かな気持ちを是非持ちたいものである。

席の譲り合い

011124


山行の帰りの横浜からの電車の中で、私が立っている斜め前の席が空いた。
その席は、私の隣に立っていた70歳前後と思われるご婦人との間だったが、私に対して「どうぞ」と言ってくれた。しかし、私が結構ですと言うと、そのご婦人が「次の駅で降りますから」とまた遠慮された。

ご婦人は、私が山の格好をしていたので、疲れていると思ったのかも知れない。あるいは実際に疲れた顔をしていたのか。だが、私は、この日の山行は山行とは言っても岩登りの練習だったので、ほとんど歩かなかった。だから、それほど疲れてもいなかったため、最初から40分間ほど、ずっと立って行くつもりでいた。
そこで、私は自分のザックを指さして「山をやっているので、大丈夫です。」と答えたら、そのご婦人は、「ああ、そうですね。」と言って、今度は素直に座ってくれた。

その時、周囲の人たちの顔が、一様にほころんだ。混雑した電車の中の空気が一瞬、爽やかな、なごんだものになった。
そのあとの私が降りる駅までの間、体がとても軽やかに感じた。

謙虚

011116

 

先日、私のホームページへの掲示板に書き込みが出来ないと読者の方から連絡があった。
早速調べてみたが、原因が分からなかった。プロバイダーのホームページを見てチェック項目を確認したが、原因が見いだせなかった。

そこで、プロバイダーのホームページからサービスセンターに問い合わせを出そうとしたが、ホームページには連絡先が記載されていなかった。サービスセンターと言う文字は色が変わっていたので、リンクが張られていると思ったが、これもダメでただ文字の色が変わっているだけだった。入会時に送付されてきた書類を見ても、なぜかサービスセンターの連絡先が見あたらない。

いい加減に頭に来て、直接関係のなさそうな部署だったにもかかわらず、メール番号がとにかく記載されていたので、その部署宛に、頭に来た勢いで文句を書き、至急サービスセンターの連絡先を教えてくれとメールを送った。どうせしばらくは何も連絡がないのだろうと思っていた。

ところが、翌日すぐに、非常に丁重なメールが来た。丁重かつ丁寧な内容であった。しかし、その内容に従いホームページをチェックしてみたが、依然として不具合は直らなかった。仕方なくまたメールを出して、問い合わせをした。そうすると、また翌日には回答があった。それもやはり、丁重な文面であった。もし、これでも解決しない場合は電話を下さいとあった。

段々と、自分が最初に抗議のメールを出したことが、恥ずかしくなって来た。早速私も丁重に、お礼を書き、もしまだ直らなければ電話をさせて頂きますと返事を書いた。

結局メールだけでは不具合は解決せず、電話をかけることになった。サービスセンターに電話がつながるのに、多少時間はかかったが、若そうな男性の方が対応してくれた。この男性の応対がまた非常に丁重で、ユーザIDなどを聞かれたが、色々なIDがあるがどれかと聞いても、あきれた様子もなく丁寧に教えて頂いた。
いったん電話を切って、10分か15分後位に先方から電話があり、結局その電話で解決する事が出来た。原因は、私がhtmlのソースの一部を知らずに削除してしまっていたらしい。

解決したことを、メールで連絡すると共に、丁重にお礼を述べたことは言うまでもない。その後、先方からも、念のためにということで、電話で教えてくれた内容をメールでわざわざ送って来てくれた。そして、確かに復旧していますねとも、書かれていた。

人間というものは、優しさ、誠実さに触れると、自分が謙虚になるものである事を、今更ながら感じた次第である。

新たな発見-車椅子

011104

 

今日、ある人のお見舞いに行った。
ベッドのそばに車椅子が置いてあった。車椅子に乗っている人の介護をしたことはあったが、自分自身が車椅子に乗って動かしてみたことはなかった。

そこでいつもの好奇心が頭をもたげ、病室内で乗って動かしてみることにした。
乗ってみて初めて分かったが、車椅子の操作は両腕さえ自由に動かすことが出来るなら、誰でも簡単に出来ることが分かった。動かしていた時間は、せいぜい2,3分だったが、その程度の時間でも周りの壁やベッドにぶつかることなく狭い病室内をかなり自由に動き回ることが出来た。左右の車輪を反対方向に回してやるだけで、いとも簡単にその場で速いスピードで方向転換することができ、さらに自動車でいうところの幅寄せも非常にスムーズにかつ早く出来ることに驚いた。

万が一、不幸にも自分が車椅子を使わなければならない身となっても、これなら動き回ることにはそれ程不自由を感じないのではないかと思った。
ただ、それには自分が行きたい場所までの間に大きな段差が無いことが大前提となる。段差が無ければ、人の手をほとんど借りずに自由に活動を広げることができるのではないだろうか。

これからの高齢化社会においては、段差のない家、社会造りが求められているが、初めてその意味、重要性が実感できた。あらゆる段差を取り払うことで、障害のある方々の世界が大きく広がる事が容易に理解できた。

物理的な段差だけでなく、あらゆる段差=差別を取り払うことによって、障害者も健常者と全く変わらない社会活動が可能となることを、健常者は認識すべきだろう。

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妻殺しの嫌疑

011028

 

物騒なタイトルであるが、どうも私は妻を山中で殺したと思われたようである。
以下はあくまでも私の勝手な推測も含んだ事実である。

ある日、私は下山して車を停めてある所までしばらく車道を歩いていたが、途中直売所の前に並べてあるリンゴがおいしそうだなあと眺めながら、その店の前を足早に通り過ぎようとしたら、そこの女主人が、「こんにちは。一人ですか?」と聞いてきた。
なんで、わざわざ一人かと聞くのか疑問に思いながらも、「そうですよ」と答え、そのまま車道を歩いて行ったが、その女主人がわざわざ店から走り出てきて、私を呼び止めるように、「一人ですか? 今朝、奥さんと一緒だった人ですよね?」と、また聞いてきた。
私は、また「いいえ、一人ですよ。」と答えた。

家に帰ってのんびり風呂に入っている最中に気がついた事だが、この時、私は完全にこの女主人に、疑われていたのである。
すなわち、山に登るときは、妻と一緒だったのに、下山の時は一人で、しかも店の前をそそくさと顔を見られないようにさっさと通り過ぎていったのは、きっと自分の妻を山中で殺害して山を下りて来たのに違いないと。

もう夕方の4時半を過ぎて暗くなり始めていたので、確かに私は車道を急いでいたし、一人かと聞かれて、素っ気なくそうだと答えたのも、疑われる一因だったに違いない。

その女主人は、「今朝、すぐそこに車を停めて、登って行った夫婦がまだ戻って来ない。」と言った。私は、山頂に着く手前ですれ違い言葉を交わした夫婦だと、直ぐに気が付いた。その夫婦は、このあたりに車を停めて来たので、またそこに戻るのだと言って、私よりも20分前に下山していた。

この女主人の話だと、この店の前の道路を挟んだ小学校の校庭に、その夫婦は車を停めていた。そこの駐車スペースは、高台にあるために車道からは見えず、通りすがりの者には駐車出来るなどとは全くわからないような場所である。だから、きっとこの夫婦は、駐車の際に多分この女主人と色々と言葉を交わしていたはずである。
だから、その夫婦のうちの主人が(つまり私が)一人で、店の前に来たにもかかわらず声も掛けず、さっさと先を急いでいるのを見て、不審に思ったに違いない。顔を見られるのを恐れていると思ったに違いない。

私は、「私も、落葉のせいで踏み跡が不明で道を間違えたが、その夫婦も迷っているかもしれない。時間的には、とっくに私よりも先に着いていなければいけないはずだ。」と答え、内心、自分が疑われているとはつゆ知らず、遭難したとすれば私が多分最後に言葉を交わした人物だということで、捜索に加わらなければならない、とお人好しにも考えていた。

その女主人は、その小学校の校庭に停めた車が有るかどうか確認すると言って、見に行ったところ、すでに車はなかった。結局、その夫婦は無事下山して、とっくに帰ったようである。私への疑いも晴れた。
私は、「まだ、これから30分位車道を歩かなければならない。」と言ったら、その女主人は、とてもにこやかな顔で「それはそれは大変ですね。ご苦労様。引き留めて済みませんでした。」と詫びるような愛想笑いをしていた。

家で、無事な妻に、私の推理を話したら、テレビの見過ぎだと言われた。