「雑感」カテゴリーアーカイブ

教えることは学ぶこと

011022


先日、私が所属しているパソコンを教えるボランティアの会の初仕事として、ある団体の方にWORDを2日間にわたり教えた。
しかし、私は教えたとは思っていない。学ぶ機会を与えてもらったと思っている。

教える相手が、パソコンはほとんど初めての方と聞いていたので、特にそのために今更WORDを勉強しなくても、大丈夫だろうと思っていたが、いざテキストに目を通すと、自分がいままで使っていたやり方とは違う方法が色々と書かれていたり、教え方のポイントがテキストで触れられていた。

勉強すればするほど、次から次へとどんどん新たな知識が増えていくのを感じたが、実際に教えながら、スムーズに説明できない所や適当にお茶を濁したところは、まだまだ十分理解、習得していないのを痛感した。
また、教え方にも流れがあり、自分のやり方でやってみようと試みたが、残念ながらうまく行かなかった。結局テキストの流れに戻って教えることとした。
今回のように、10名近くの受講生を前に教えることは初めてであったので、自分のやり方などは所詮まだ無理であった。

パートナーの方と交互に講師役を交代しながら研修を進めたが、パートナーの方が教えている間、それを聞いていて自分が知らなかった操作方法も知ることが出来た。

受講生の方々は、皆さん非常に熱心で、ほとんど一日中ぶっ通しの研修であったにもかかわらず、誰一人として居眠りをしたり、あくびをするような人もなく、教える側として非常に嬉しかった。

この度の初めてのパソコン研修は、受講生以上に自分が色々なことを学んだのではないかと思う。
教えることは学ぶことであるのを実感した次第である。

救急処置

011014


しばらく雑感を書いていなかったが、先日ある読者の方から「最近雑感を書いていないね、楽しみにしているのだけど」と言われた。
書きたい事は色々とあったのだが、忙しさにかまけ、1ヶ月以上も怠ってしまっていた。
そこで、先日(とは言っても一ヶ月近く前になるが)の朝の出来事を書いてみた。

朝、いつもの通り電車で会社へ向かい、駅に着き満員電車を降りようとして足下をみると、マネキン人形の足が2本倒れていた。誰かの荷物かと思った。しかし、それはマネキンなどではなく、本当の女性の足だった。どうやら、満員電車の中で具合が悪くなって倒れ込んだものらしい。そばには、他の男性の乗客がその女性の腕をささえるようにしていた。しかし、その女性の倒れ方が、ぐったりとした感じで倒れ込んでいるのではなく、体全体を突っ張らせるようにして倒れていた。それで私はマネキンの足のように見えたのだった。

私は、会社のある駅に着いたので、車両を降りなければと、いつもの条件反射でいったんはホームに出た。
しかし、そばについていた男性はただ腕をとっているだけで、特に何も処置をしようとしているようには見えなかった。その女性はというと、目を大きく見開いて全く動かないようだった。また、呼吸もしていないように見えた。

人が倒れたときは、最初の数分間の処置が生死を分けるので、この女性の場合も、もし心肺が停止していたら直ぐに人工呼吸が必要になると思った。そばにいる男性が、心肺の状況を見たりしているのかどうか、もし停止しているのなら人工呼吸をしようとしているのかが気になった。
もし周囲の人たちが誰も人工呼吸の処置を出来ないのであれば、私がやってみようと思った。

私は、二年ほど前に、山の関係で知った横浜市消防局主催の救急処置の講習会に出席し、一応ひと通り心肺の蘇生法を習った。しかし、その後幸いにも一度もやったことがないので、忘れかけていた。
それでも、誰も出来なければ自分がやってみようと思い、また満員の車両の中に戻った。
すると、その女性は急にいびきをかき始めた。いびきをかき始めたことで、少なくと心肺は機能していることが分かり、またいびきをかいている場合は脳の障害であり、動かしてはいけないことになっているので、私は人工呼吸をやらずに済んだと内心ほっとし、自分の出番はないと思い、再び車両を降りホームに出た。

救急車を呼んでいたが、何分くらいで着くのかが気がかりであった。少なくとも駅の改札を出てしばらくしても、まだ救急車のサイレンの音は聞こえてこなかった。どうなっただろうか。

救急法を習ったときに思ったことであるが、心肺蘇生法を覚えたとしても、自分が山の中で具合が悪くなり倒れた時には、自分で自分の体の心肺蘇生を出来るわけではない。自分が覚えるのではなく、周囲の人に覚えてもらう必要があると思った次第である。
だが、情けは人の為ならずである。

台風一過の夕焼け


昨日から今日にかけて大型の台風15号が関東を直撃した。
今日は、朝の出勤時と昼前の外出時の2回もびしょ濡れになってしまった。靴の中まで濡れてしまったが、外出先のため靴を脱いで乾かすことも出来ず、一日不快な思いをした。

しかし、昼過ぎからはやっと台風も過ぎ去り、徐々に天気が回復してきた。夕方、帰宅時に駅に降り立ったときはすっかり雨は上がっていた。でも、空の様子がいつもと全く違っていた。厚い雲がまだ西の空のあちこちに残っていたが、それらの雲の合間からの夕焼けが、いつも見る夕焼けとは全く違っていた。

西の方向だけでなく西の方向を中心にほぼ180度にわたって、空が非常に鮮やかな朱色に染まっていた。墨色をした雲の陰と朱色に染まった空の醸し出す最高の自然の美であった。今まで見たこともない夕焼けであった。

駅の改札を出る手前あたりから、その夕焼けが真正面に見えていた。思わず周りの人にも、声を掛け教えたくなるのを我慢した。なぜなら、声を掛けなくてもその光景は皆の目に飛び込んでくるから。改札を出た直ぐのところは全面が窓であったので、急いで窓に近寄り夕焼けを眺めていた。デジカメを持っていなかったことが、非常に悔やまれる。

しかし、何か変だった。周りの人を見ると、夕焼けを一瞥すらせずに、皆そそくさと駅を出ていってしまった。窓際で立ち止まったのは、私ともう一人の若い男性の二人だけであった。私は、なぜこんな素晴らしい夕焼けを見ないのかと、声を上げたくなった。

駅の階段を下りて、交差点で信号待ちをしている時も、まだその美しい夕焼けが見えていたが、西の空を見ている人は私以外には誰一人として居なかった。
私は、誰かにこの夕焼けを見せたくて、家に電話した。娘は見たと言っていた。

美しいものに接しても、感動しなくなった日本人に非常に寂しさを感じた。毎日の生活に忙しく、夕焼けを見ている余裕も無いのだろうか。そそくさと、家路につく家庭には何が待っているというのだろうか。こんな素晴らしい夕焼け以上のものがあるのだろうか。今日はこんな素晴らしい夕焼けを見た、と家族に話をする心のゆとりが欲しいものである。

しかし、今日見た夕焼けはあまりに美しすぎて、また幻想的で何か不吉な事が起きる前兆のようにも思われた。

止めて欲しいこと


女子高生の制服のミニスカートは、見ていて余りいいものではない。

階段を登るときに、下着がみえないように手で押さえている姿は、いかにも後から上がってくる人が覗き込むのを防ぐためと言わんばかりで、後から行くこちらとしては非常に不愉快である。

スカートはもともと短いのではなく、ウエストの所で何重にも折り畳んで短くしているようである。学校では、服装検査や何か行事があるときは、折り畳み部分を無くして普通の長さにしている。
中にはすらっとした日本人離れした脚線美の持ち主もいるが、ほとんどがあまりまともには見たくない足の持ち主であるにもかかわらず、羞恥心という言葉を知らないのか、皆一様にスカート丈を短くしている。

なぜ日本の若者、特に女の子は、皆同じ格好をしたがるのだろうか。最近は余り見かけなくなったが、よれよれでだぶだぶの地面に触れて汚れた白いソックスを例外なく履いていた。寒い季節になるとまた履くのであろうか。また、冬になると同じパターンのマフラーを首に巻きだすのであろうか。
私は、もし他の人が自分と同じものを着ていたりすると落ち着かなくなり、以後はそれを身に付けて外出しようという気持ちが萎えてしまう。

若い人の場合は、同じ格好をしないと仲間はずれにされるとか、流行遅れだと馬鹿にされたりするのだろうか。同じ格好にしたいのなら、学校で決められた制服や、制服の長さ、髪の色でも良いはずであるが、大人からのお仕着せに対しては、服装は自由にすべきだとか、髪の毛を染めて何故悪いとか言い出す。始末に負えない。
学校が、もし茶髪で、ルーズソックスにミニスカートを正式な服装規定にしたら、若い子達はどのような反応を示すのか非常に興味深いところである。

今日これを書くのは、今朝駅の階段を登るときに目の前にミニスカートの高校生を見かけたからである。いつも見かける風景なのに、なぜ今日書く気になったのか。
それは、その女子高生はちょうど左手をお尻の、あの大がつくものが出てくる所に手を当てていたからである。その光景は、まさにトイレに行きたいのを我慢している図であった。大袈裟に書いているのではなく、本当に一瞬そう思った。しかし、階段を登りきると左手を普通に戻し平然と歩き出したので、トイレに行きたかったわけでは無いことが分かった次第である。
まぎらわしい仕草は絶対に止めて欲しい。

理科離れ


昨日、相模原市内にある宇宙科学研究所(宇宙研)の一般公開があったので行って来た。毎年夏休み時期の日曜日に、一般市民とくに子供の見学者を期待して行われている。

公開の内容は、科学衛星やその打ち上げ用のロケットなどの開発研究成果である。宇宙人から発信された信号を受信しようとする試みや宇宙の起源を探る研究などもあり、興味深いものが多い。
私は、仕事に全く無関係でもなかったのと、宇宙への興味から10年位前から行き始め毎年欠かした事がない。

10時開場であったが、10時過ぎには小学生位の子供達が列を作って宇宙研へ向かう姿が見られた。会場内では、ペットボトルを利用した水ロケットを作り飛距離を競ったり、スタンプラリーなども行われ、子供達に興味を抱かせるべく、苦労をされている。
実際に触ったり、動かす様なコーナーでは、子供達の輪が出来ていて、大人はなかなか近づけない。

会場を回っていて印象的だったのは、展示会場のあちこちに配置されている若い研究者達の説明態度であった。難しいことを出来るだけ子供や素人にもわかりやすく説明をしようとする真摯な態度と、非常に穏やかな性格を感じさせる喋り方であった。質問に答えてくれる姿は、非常にほほえましい感じさえする。
次のブースへ移動するときには、説明へのお礼を言い、頑張って下さいと言わずにはいられない。

真理を追究しようとする人は、事実を謙虚に受け止めなければいけない。このような研究における謙虚さが、人間の傲慢さ、横柄さを取り除いてくれるのではないだろうか。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言う言葉は、研究者に似合っているといつも思う。

子供達の理科離れが進んでいると言われており、理科系の私としては非常に残念であるが、少なくとも昨日の見学風景を見ていると、科学に興味をもつ子供はたくさんいる。子供に興味を持たせる工夫を怠ると見向きもされないかも知れないが、このような若い研究者達の謙虚で地道な努力があれば、まだまだ日本は大丈夫であると思う。

槍ケ岳への道-4 (燕岳・槍ケ岳山行)


夜になっても、雨は時折激しく降っていた。顔なじみになった方々と明日の天候の話をするが、皆悲観的であった。せっかくここまで来ていながら、槍の穂先に登ることも見ることも出来ずに帰ることになるのだろうか。こんな悔しいことは無い。
とにかく明朝は4時起きで山頂へ向かう事にして、天候の回復を期待しながら早々と19時頃には眠りに就いた。

翌朝予定通りに4時に目を覚まし、気になる天候を確かめるために上着も着ずに外へ飛び出した。すると、何と昨夜までの雨が嘘の様に、地平線と接する空はほのかに白く明るさを取り戻し、槍の穂先の方のまだ深い群青色をした空には、大きな星が二つまたたいていた。 シルエットとなって浮かび上がっている槍の穂先では、ヘッドライトの光が星の輝きの様にまたたき、その光が連なって頂上に向かっているのが見える。

これほどの好天は予想もしていなかった。私の血が一瞬、騒ぐのを感じた。5年ほど前に山を始めて以来丹沢だけしか知らず、槍ケ岳なんて高嶺の花と思っていた私が、いよいよ槍に登るのだと思うと武者震いがした。

4時20分過ぎに槍の頂上を目指して、ヘッドライトで足下を照らしながら歩き始めた。急な岩場なので油断は禁物である。しかし、頂上までは意外とあっけなくたどり着いた。小学生くらいの子供達も登っていた。 頂上に近づく頃には、ヘッドライトの明かりも要らなくなった。

山頂には、御来光をここで迎えようと言う人たちですでに一杯だった。日ノ出の時間は5時5分だったので、30分位山頂にいた。日ノ出を待つ間、皆で写真を撮りあったり、目の前に見える穂高連峰や、眼下の槍岳山荘などを写真におさめた。

太陽が徐々に姿を現してきた。今日一日の好天を約束するような、見事な日ノ出だった。いつも思うことだが、太陽は毎日同じ太陽なのに、何故か山でみる御来光は気持ちをとても厳粛な気持ちにさせてくれる。新しい朝が来て、昨日までの色々な苦しい思いや、悲しい思いなど全てを清算してくれ、希望に満ちた新しい一日の出発という気持ちにさせてくれる。思わず手を合わせたくなる。

しばし日ノ出と山頂からの眺めに酔いしれてから、山頂を下り、朝食もそこそこに上高地に向けて出発した。下りながらも、何度も何度も槍ケ岳を振り返り、雄大な姿を写真におさめ、名残りを惜しみながら槍沢を後にした。

私の今年の夏は、終わってしまった。

槍ケ岳への道-1 (燕岳・槍ケ岳山行)


この夏、登山をするものなら誰でも一度は憧れる北アルプスのシンボル、槍ケ岳に登ってきた。

何度も書いたが、私は北アルプスそのものが初めてであった。ましてや、単独登山である。あまり山をやらない人は、皆一様に「えっ、一人で行くの!?」とびっくりしていた。

あまり、心配されるとこちらも心配になってくるが、ガイドブックを丹念に読むと特に危険なところは無さそうだし、表銀座といわれるほど人が多いコースらしい。ましてや、私の家内は15歳の高校1年生の時に山岳部で初めて連れて行かれたコースであると言っていた。
それなら、こちらはいくら中年になったとは言っても、丹沢をほとんど歩いた自分としては何とか歩き通せるだろうと、多少確信を持って出発することとした。

ただ、これも初めての3日間の縦走で体力が持つかどうか、また膝痛が出て来なければよいがと心配もあった。少しでも不安をなくすために、山行の2週間前から筋肉トレーニングや、ザックに水を沢山詰め込んで暑い丹沢を長時間歩いたりと、それなりの体力増強を図った。

ガイドブックのコース例では、2日目は燕山荘から槍ケ岳までとなっていたが、涼風に吹かれ展望を楽しみながらの稜線歩きなので何とか楽に行けるだろうと予想していた。しかし地図によると歩行時間は9時間前後であり、いつもの日帰り山行に比べて5,6Kg重い荷物でなおかつ写真を撮りながらでは、軽く10時間を超えることも十分予想される。

槍ケ岳への道-2 (燕岳・槍ケ岳山行)


一日目の中房温泉から燕山荘までは半日の行程で、ちょうどお昼に着いてしまい時間がかなり余ってしまった。途中道すがら一緒になった4人グループや女性の単独行の方々は明日の歩行時間の短縮を考えて、その日のうちに大天井まで行かれた。私もその気持ちもあったが、計画を立ててしまっていたので予定通り燕山荘に泊まる事とした。その代わり明日は4時出発と決めた。

しかしながら、夕方からの濃い霧が夜には雨に変わり、翌朝は厚い雲が空を覆い、いつまでたっても明るくならず道も全く見えない状態であった。結局、山荘を出発できたのは予定より1時間遅れの5時過ぎであった。出発の時には上がっていた雨も、歩き出して直ぐにまた降り出した。汗を人一倍かく私としては雨具を着用したくはなかったが、標高3千mでの雨は冷たく、丹沢の登山のように雨に濡れて気持ちがよいと言う訳にはいかなかった。

その後もほとんど雨は降り続け、写真も雨の合間にわずかしか撮ることが出来なかった。大天井まで行く間に見かけた、コマクサの間を歩き回ったりあるいはまるで道案内をしてくれるように私の先を歩いていく雷鳥を写真に収めることが出来なかったことは、大変くやしかった。喜作新道の稜線も晴れていれば、素晴らしい眺めだろうと思われた。

雨の中の大天井までの道のりは非常に長く感じられた。途中、雨具を脱いだり着たりを繰り返していたせいもあるが、3時間近くかかっていた。雨脚も時には強くなったりで、なかなか天候の回復のきざしが見えない。こんな調子で、今日は槍ケ岳まで行けるのかなと不安がよぎった。

槍ケ岳への道-3 (燕岳・槍ケ岳山行)


とにかく歩き続けるしかなかった。

私の前後には今朝同じ燕山荘を出発した人が4、5人いたが、濃い霧のためほとんどその姿が見えない。途中で休んでいると、後から来た人が追いついて来たがまた直ぐに間隔が広がる。雨は相変わらず降ったり止んだりを繰り返し、空はいつまでたっても晴れる様子を見せない。ヒュッテ西岳やヒュッテ大槍で休憩しているときにはまた雨脚が強くなってきていて、今日はもうここに泊まってしまおうかと言う気持ちが胸をよぎった。

しかし、今日中に槍ケ岳まで行っておかなければ、明日の上高地への行程がまたきつくなる。何とか気持ちを奮い立たせ、雨と疲れで重くなってきた足を一歩一歩前へ踏み出し歩き始めた。
こんな時は、遙か遠くに目的地が見えない方がいいのかも知れない。あまりにも目標が遠いと、気持ちが萎えてしまいそうになる。東鎌尾根の雨に濡れた岩場を、滑らないように慎重に歩く。疲れたときに事故を起こしやすいので気を引き締め、槍ケ岳を目指した。

槍ケ岳まであと800mと岩にペンキで書かれた表示を見たときは、やっと着いたという気持ちだった。ところが、いくら歩いても槍ケ岳は見えて来ないし、次の何mと言う表示も現れない。2,300m以上は歩いたと思われる頃にやっと700mという表示が見えた。

丹沢を歩いていて分かったことだが、ある目的地まで何mという表示は必ずしも道のりを表していない。地図上の直線距離を表しているところもある。ほとんどの場合、実感としては表示の距離よりも、長く歩いていると感じていると思う。疲れによって長く感じる所もあるのかも知れないが、このような表示は必ず道のりを表示して欲しいものだ。

槍岳山荘への最後の200mは本当に長かった。400m以上は歩いたのではないだろうか。途中2,3度休んだほどである。それでも、やっと槍の肩に着いた!!
結局、燕山荘から槍の肩(槍岳山荘)まで10時間半を要した。

しかし濃い霧で槍ケ岳はおろか山荘の周囲さえもほとんど何も見えない。雨もまだ降っていた。こんな天候で、槍ケ岳の山頂に登れるのだろうか。明日もこんな天候が続くのだろうか。槍ケ岳のふもとまで来ておきながら、全く何も見ることが出来ずに上高地へ下りることになってしまうのだろうかと、着いたばかりの山荘の前でしばらく佇んでいた。

デジカメ(燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行では、家を出てから帰宅するまでの間に、何と660枚もの写真を撮っていた。予想していたことではあったが、我ながらよくもこんなにたくさん撮ったなあと思う。
途中丸一日雨の日がありほとんど写真を撮れなかったが、それでもこの枚数である。もし晴れていれば軽く800枚は越えたであろう。
従来の銀塩カメラでは、フィルム代やら現像代を考えたらとてもこんな枚数は撮れない。デジカメだからこそである。

デジカメには色々なメリットがあるが、私の写真は構え方が悪いせいでブレてしまうことが多く、ブレたのではないかと思った時には、その場でもう一度シャッターを押し直す。一枚のメモリーカードでも、画質を低めに抑えておけばほとんど枚数を気にしないで写せる事が大きなメリットだ。

撮った写真をインターネットのホームページに使う場合は、大きなデータサイズのものは避けなければならないので、敢えて高画質にしてデータサイズを上げる必要は無く、ほどほどの画質で構わない。
高画質で撮りたい場合というのは、例えば大きなサイズでカラー印刷をする時だと思うが、今まではほとんどその様な必要はなかった。

私のデジカメの用途は、ほとんどが山行記録用である。いろいろなポイントの道標や目印になるようなものまで、何でも撮ってしまう。後で、スライドショーの機能を使って撮った写真を流してみると、自分の行動を明確に思い出すことが出来る。バスの時刻表なども撮っておけば、次回に利用する時の情報として役に立つ。だから、私のホームページに載らなかった写真の何倍もの枚数の写真がパソコンの中に入っている。
しかし、これだけたくさん撮ってもホームページで使えそうなものはほんのわずかしか無いのは、やはり腕のせいでこればかりはどうしようもない。それだからこそ、出来るだけたくさん写して、まぐれの出来ばえの写真を選ぶしかなさそうである。逆にいうと、それだからこそデジカメのメリットを発揮できるのだと思う。

山行中にも、いろいろな方からデジカメを羨ましがられたが、最近は価格も下がってきており小さく軽いので、新たにカメラを買うのなら是非デジカメを買いなさいとその方々に薦めた。槍ヶ岳のあの狭い山頂でも、女子高生らしきグループにデジカメを羨ましがられて薦めてしまった。

各駅停車の旅 (燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行は、特急が何本も出ているにも関わらず、敢えて各駅停車の電車で八王子から松本まで行くことにした。

特急だと2時間ちょっとで着いてしまうので、電車に乗り込んでものんびりとしていられない。その点,各駅停車の電車は4時間以上かかるので、のんびりと車窓の風景を眺め、本を読み、駅弁を食べ、そしてまどろむ事が出来る。以前からやってみたかった事だった。
その昔、私が札幌の実家に帰省するときも、特急でなく急行に乗って帰ったことも何度かあった。各停の電車の旅は、特急では味わえない郷愁を誘うものがある。

左右に見えて来る山並みをのんびりと眺めながらの電車の旅ほど贅沢はないと思う。各停の電車だけあっていつもがらがらの状態で、靴を脱いで前のシートに足を乗せボックスを独り占めも出来る。安い料金でこんな至福の時を与えてくれるなんて、何と素晴らしいことかと思う。

帰りも電車の振動に揺られ、山行の余韻を楽しみながら山行記録を書き、また山を歩き通したという満足感に浸りながら、時間も気にせず各停の電車で帰ってきた。これが、特急で有れば慌ただしく乗り込み、慌ただしく降りる支度をしたりで、山行の余韻などあったものではない。山梨の近くでは、右手に南アルプスの山並みが見え隠れし、いつかはここも歩いてみたいなあと痛い足の裏をかばいながら、もう考えている私であった。

岩(燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行では、高山だけあって岩場のルートが多かったが、歩きながら思ったことは、全く同じ形をした岩はひとつも無いという事である。それでいて、形の異なった岩と岩ががっちりと組み合わさって山を形作ったり、私たちの体重を支えながら、歩く道を作ってくれている。

これは、まさに人間社会と同じである。社会は、色々な性格や能力を持った人間で構成されていて、これらの人々が、岩がうまく組み合わさって堅固な石垣を作るように、健全な社会を形成し色々な機能を果たしている。この岩のひとつでも欠けると石垣は崩れてしまう。
しかし、たまに社会に適合できない性格異常者が出てくると、石垣の岩がはずれるように、重大事件を引き起こし社会の機能をマヒさせてしまう。最近頻発している通り魔的殺人などが、その良い例であろう。

登山中も、このような岩が時々潜んでいて、思わぬところで顔を出し、たまたまその岩に不用意に足を乗せた時に、バランスを失って転倒したり、転落事故などを発生させる。
大きな岩でも必ずしも安定していないので、常に注意を払いながら歩く必要がある。 その様な時の山行は非常に神経が疲れるものであるが。