tanzawasankou のすべての投稿

マイナス思考

040201


 

プラス思考でなく、なぜマイナス思考??と思われる方が多いのではないかと思う。

五木寛之の「大河の一滴」の中で、使われている言葉である。
私は、この本を読み始めた時、五木寛之の考え方に非常に戸惑いを感じた。この世の中への希望が薄れ、急に目の前が暗くなって行くような気がした。

冒頭から、「人生は苦しみと絶望の連続である」と書いてあり、とてもこんな悲観的な、否定的な本は、将来のある若い人には、読ませられないと思った。

しかし、読む進めるうちに、だんだんと五木寛之の言おうとしていることが分かってきた、そして逆に光明が射して来たような気がしてきた。

すなわち、『いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。(中略) だからなにも期待しない、期待すべきではない。』と。

だからこそ、『いまの自分は、極限のマイナス地点にいて、ここを出発点とすれば、乾ききった大地には、一滴の雨が甘露と感じられるように、何も期待していない時に、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが旱天の慈雨と感じられるのだ。そこにおのずとわき上がってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えていく。だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点に立ちもどりつつ生きるしかない。』という事である。

また、この本の別のところで、人間というのは、功名成し遂げなくとも、生きているだけでも素晴らしいことだと書いている。だからこそ、自殺をしたり、他の人を殺めたりするようなことはしてはならないと。

この本を読み進むにしたがって、マイナス思考は悲観的な、否定的な考え方と思っていたのが、逆に、ちょっとした努力、前向きささえあれば、人間はプラスになれる。今がマイナス地点の極み、地獄、どん底と考えれば、何も恐れる事はないと思えてきた。

この本は、いま自分は苦しい状況にあるという人や、辛いと思っている人に読んで欲しいと思った本である。

 

前向きに(その2)

040121


 

会社のある情報誌に、免疫力を高めようという特集があった。

その中に、私が10月に書いた雑感の「前向きに」の中での話と同様の事が書いてあったので目に止まった。

キーポイントは「食」と「心」で、6項目が書かれていた。そのうちの3項目は、どこにでも書いてある、「食」に関することなので、ここでは省略するが、「心」に関しての3項目について紹介する。

1) リラックスしてリンパ球を増やす
2) 前向きに暮らすほど免疫力アップ
3) 「わっはっは」で免疫が強化される

それぞれの項目には、具体的な分泌される物質名などの説明が書かれていたが、簡単に言うと、次のような内容である。

1) 上手にストレスを解消し、リラックスしてリンパ球を増やし
免疫力を強化する
2) 何かひとつ、好きなこと、やりがいのあることを見つけ、
ワクワクしながら前向きに暮らせば、免疫細胞を活性化する
脳内物質エンドルフィンが分泌され、免疫力がアップする。
3) 笑顔を絶やさず、大笑いすると、免疫機能を、正常化、
活性化し、病気になりにくい、あるいは病気を克服する
事が出来る。

是非、心がけたいことばかりである。

前向きに

030718


 

帰宅早々、夕食時にテレビをつけたら、脳腫瘍の少年が、医者から余命1年と宣告されたにもかかわらず、奇跡的に回復したという実話の紹介をやっていた。

医者にも見放された少年の両親が、藁にもすがる思いで、心理学者を訪れた。なぜ心理学者かと不思議に思ったが、その心理学者の勧めに従った結果、何と奇跡的に少年の脳から腫瘍が完全に消えてしまったのである。

心理学者の勧めに従って何をしたかというと、親子が一緒になって、モーツアルトの音楽を聴きながら、脳の中の腫瘍を追い出してやる、病気なんかに負けないぞ、必ず元気になると強く信じ、夜も昼もそのように思い続けた結果、腫瘍が完全に消えてしまったというものである。

嘘のような話であるが、私は絶対に起こり得ると思った。思ったと同時に突然目の前が明るくなった。

解説では、モーツアルトの音楽には、免疫力を強める音が含まれていると言っていた。これは、バロック音楽やいわゆる癒し系の音楽がアルファ波を出すと言われているのと同様だろうと思う。
また、自分は元気になるんだと言う気力が、脳から免疫物質を作り出すと言っていた。これも、気力次第で元気になるのは、まさに日常の生活で誰もが経験していることだと思う。
更に、この少年の場合は、家族の支えも大きな力になっていたに違いない。

番組では、「前向きに明るく生きると、必ず良い影響がある」と解説していた。
これは、病気のみならず、全てのことにおいて当てはまることであり、だから、私は突然目の前が明るくなったのだと思う。

番組の最後に、男女のキスも免疫物質を作り出し、愛情を感じながら生きる人は、そうでない人よりも5年は長生きするとも言っていた。

(番組の内容の説明が一部正確でないところがあるかもしれないが、ご容赦の程を。)

素晴らしい贈り物

030718


幸運の女神から素晴らしいプレゼントを頂いた。

私が、以前から一度は聞きたいと思っていたフジ子・ヘミングのコンサートに、まさに私の誕生日のその日に聴きに行くことが出来た。

この日のコンサートは、オーケストラとの共演であったが、アンコールで、リストのラ・カンパネラを弾きますとフジ子・ヘミングが言った時は、思わずやったと口走ってしまった。ソロでの演奏だった。

弾き始めると同時に、背中がぞくぞくし鳥肌が立って来た。まさに、安野光雅の絵を初めて間近に鑑賞したときと同じだった。
いつかは生で聞きたいと思っていた、フジ子・ヘミングのその曲が目の前で演奏されている。しかもフジ子・ヘミングの顔がはっきりと見える距離で。

フジ子・ヘミングの演奏は、いつ聴いてもいつも私の心の奥深くまで入り込んでくる。
今日は、フジ子・ヘミングと同じ空間を共有でき、その素晴らしい演奏がその共有された空気の振動を通じて、私の体に伝わって来た。どこが、他のピアニストと違うのか、私にははっきりと説明は出来ないが、その違いは、肌で、体で感じることが出来る。
他のピアニストの演奏で同じ曲を聴き比べてみたこともあったが、やはり何かが違う。

フジ子・ヘミングのアンコールの演奏が終わり、退場する際に、観客席からフジ子・ヘミングに声がかかった。彼女もにこやかに手を振っていた。クラシックコンサートでは、珍しいことではないだろうか。それほど彼女の人気の高さを物語っているように思われた。

彼女の聴力が完全に失われてしまわないかとても気掛かりであるが、これからもまだまだ健康で末永く私たち聴衆に音楽の素晴らしさを伝えて欲しいと思う。

今日の素晴らしい誕生日プレゼントを与えてくれた、素敵な女神に心から感謝したい。

バスの中でのちょっと不愉快な話

030605


 

随分と時間が経ってしまったが、昨年書いた雑感「バスの中でのちょっといい話 (02/09/23)」の続きとして、この雑感を書いている。

同じバスの中での話である。
その若いバスの運転手は、乗客である団体さんが、特急電車への乗り継ぎに何とか間に合うように、バスを飛ばしていた。
私は、その運転手が、必死で間に合わせようと急いでいる様子を、後ろから見ていて、いつの間にか心の内で運転手を応援していた。

雨が降り出していた事もあり、駅が近づくにつれ、車も増え、渋滞が激しくなっていた。それでも、その運転手のお陰で、バスはやっと私鉄の駅に着いた。

運転手は、車内アナウンスで、団体の人を優先して先に降ろして上げて下さい、と頼んでいた。子供達は、父兄や先生らしき人にせかされて、蜘蛛の子を散らすように、前や後ろの降車口から駆け下りると、駅に向かって一目散に駆けて行った。

子供達が降りている最中に、その団体の父兄か付き添いの先生かは分からないが、大人の男性が、バスの前の乗車口から入ってきて、急いでくれた事へのお礼も言わず、団体の人の運賃をまとめてバスのカードで支払おうとしていた。しかし、そのカードを通す機械は、ある人数分以上の支払いが出来ないらしく、運転手も、運賃の計算をしたりして、ちょっともたついていた。

そのうち、その大人の男性は、時間がないと言って怒りだし、カードが3,4枚あるので、それを全部置いていくと運転手に言っていた。
そうこうしているうちに、私もバスから降りてしまい、どのように決着したのかは、見届ける事は出来なかった。

私が電車のホームに降り立った時には、団体の人達は全員揃っていたようで、ちょうどその時に、彼等が乗る特急がホームに滑りこんで来た。

私は、あの運転手の努力が報われて良かったと思うと同時に、あの付き添いの大人の男性の運転手に対する態度に、いささか白けた気持になっていた。

春の通勤電車

030517


 

春の朝の通勤電車は落ち着きが悪い。

4月、5月は、新しい通勤、通学の人達が増え電車の中が更に混雑し、何となく落ち着かなくなる。その混雑が理由ではない。
4月になって初めて通勤電車に乗るようになった人達のマナーが悪い訳でも何ともない。でも、何かが違う。

それは、まさに、いつも決まった場所に決まった人が座るのに、突然初めての人が入ってきて、知らずにそこに座ってしまい、周囲の人が何となく落ち着かなくなるのと同様かも知れない。

通勤慣れした人達は、混雑した車両での身の処し方を心得ているから、電車の振動や、停車駅での人の動きに対して、逆らわずに自分の体をうまく移動させている。

それにひきかえ、新入社員や新入生は、まだ自分の体を人と人の隙間の中に入れる術を知らず、人の動きに対する身の処し方も知らないので、やけに体がぶつかって来たりする。また、そのような顔ぶれの人の周囲には、やけに大きな空間が空いている。

これは、ちょうど箱の中に、物を詰めるときに、慣れている人は入れる順序や場所を心得ていて、限られた狭い箱の中に沢山の物を詰められるが、まだ要領を得ない人は、詰め方が分からず隙間だらけになり、同じ容積の箱なのに、慣れている人に比べ、少ししか物を詰めることが出来ず、箱の中が安定していないのと似ている。

価値観

030209


新聞を見ていて、腹立たしいことがあった。それはゴッホの絵についてであった。

その新聞によれば、最初その絵は作者不詳ということで、1万円位からオークションが始まる予定だったということだ。ところが、鑑定の結果、ゴッホの絵だと分かると、いきなり数百万円からオークションが始まり、結局6千6百万円で落札されたとの記事である。

作者が誰かによって、その価格が大きく違うというのは、分からなくもないが、1万円でオークションを始める予定の絵が最終的に6千6百万円というのは、誰が考えてもおかしいと思う。この6千6百万円というのは、その絵の素晴らしさに付いた値段ではなく、ゴッホという名前に付いた値段だということである。1万円からオークションを始めようとした関係者は美術的価値としては数万円しかないと判定したのである。

作者の名前が分かった途端、価格のみならず、絵そのものに対する評価が変わることは、往々にしてある話であるが、それはまさに芸術に対する感性が無いことを露呈するようなものではないだろうか。

色々な価値観があるとは思うが、少なくとも回りの無節操な意見にとらわれる事のない、自分の価値観を持つことが大切だと思う。

私は素晴らしい絵や写真などを見ても、それが誰の作品かということは、ほとんど気にしない。単にその作品が自分にとって、心を打つものであるかどうか、自分の好みに合うかどうかで、評価する。、映画でも同様で、監督が誰かとか、その俳優は誰かとかはどうでもよく、内容が自分にとって良ければそれでいい。だから、自慢にはならないが、有名な人でも名前を知らない事が多い。

私が何かを買う時は、まずそのものが自分にとって本当に価値があるのか、その価格に見合うものかどうかを考えてから買う。その結果、たまたまブランド品であることも有るかもしれないが、ほとんどはブランド品ではない。

女性用バッグなどの偽ブランド品が出回る事が時折話題になる。勿論、騙して偽物を買わせる人間が一番悪いのだが、私は、買う人がもっと自分の価値観を持ち、自分が本当にいいと思うものを買えばいいのに、といつも思ってしまう。
自分が納得して買ったものなら、たとえそれが本物のブランドでなかったとしても、あきらめがつくというものである。

コラム

021101


最近読んだ、ある本の紹介の中に、次のような文章があった。
「ときにユーモアを交え、あるいはシニカルに、大上段に構えるのではなく、読者の心の底に、そのメッセージをストンと落とし込む。それこそがコラムニストの腕のみせどころなのかもしれない。」

私のこの「雑感」は、新聞、雑誌などのコラムを念頭に書いてきた。その割には、しばらく書かなかったりで、いい加減ではあるが。
そんな私の雑感であるが、上に紹介した文章の中の「大上段に構えるのではなく」の言葉が、私の胸にグサリと来た。

「雑感」を書いていると、読んでいただく方に何らかのメッセージを伝えたい、私の思いを分かってもらいたい、私の不満に対して同意して欲しいなどと思い、つい偉そうなことを書いてしまい、私のホームページをいつも見ていただいている方から、お叱りのメールを頂戴したこともあった。

自分の考えを伝えようと思うと、つい自分だけが正しいと思い込み、激しい口調になり、大上段に構えてしまう。読んでいただく方にただ不快感を与えるだけであることを、つい忘れてしまう。

「ときにユーモアを交え、あるいはシニカルに、読者の心の底に、そのメッセージをストンと落とし込む。」ことを、心がけてこれからも雑感を書いて行きたいと思う。

テレックス

020923

 

最近の新聞に、テレックスのサービスを終了するとの記事が出ていたのを見て、非常に感慨深かった。

テレックスと言っても、いまやどんなものか知らない方も多いかも知れない。タイプライターに鑽孔機がついていて、その鑽孔機で紙テープに文字を表す穴を明けて、その紙テープをそのタイプライターに読み込ませ、海外などに文章を送信する通信システムである。もちろん、文字しか送れない。十数年以上前は、海外との通信はほとんどこのテレックスに頼っていた。電話はあったが、記録に残る手段としては、テレックスだけだった。ファックスがそろそろ出始めていた頃である。

私が十数年前に、中近東のある国に長期の出張を繰り返していた時も、このテレックスは業務連絡用に頻繁に利用していた。
その国は、ちょっと特殊な国だったので、色々と状況を日本に報告するにも、事細かに伝えないと日本側になかなか理解してもらえないという事情があった。そのため、いわゆるフンドシのテレックスになる。短くてもロール紙で長さ1m位、長くて2、3mの長さになる。これを毎晩日本に深夜送信していた。
紙テープを作る際に、原稿が長いと自分で原稿を見ながらタイプを打つのは時間がかかるので、他の人に読んでもらい、それを聞きながらタイプを打っていた。入力ミスがあると、間違ったところまで紙テープを1文字づつ数えながら戻し、またその部分からすべて打ち直さなければならない。

また、日本に帰国している時も、現地に長いテレックスを送らなければならなかった。通常テレックス室への原稿渡しは夕方までだった。しかし毎日のように、遅い時間に大量の原稿をテレックス室に持っていくので、そのうちテレックスオペレータのおばさんと顔なじみになり、テレックス室の鍵の場所もこっそり教えてもらい、深夜に自分でテレックス室から勝手にテレックスを打ったりもしていた。

今思うに、この頃が一番ブラインドタッチが早かったと思う。かなりの早さで、人の喋るのを聞きながらタイプが出来た。その後はどんどん衰えて行って、今は入力間違いがとても多い。

そんな訳で、テレックスのサービスが廃止されることに、人一倍感慨深いものを感じてしまった。

バスの中でのちょっといい話

020923-2

 

山行の帰りのバスの中での話である。

バス停で、遅れて来たバスに乗りこんだら、いつもはたいてい座れるはずのバスが、子供の団体とその付き添いの大人達で、すでに満席だった。
私と、私と一緒に乗った夫婦も立つことになった。

私が乗ったバス停の次のバス停には中高年の登山客のグループ20名が、バスを待っていた。すると、そのバスの運転手が、待っていたお客に満席なので次のバスにしてもらえませんかと、バスの外で時刻表を見ながら頼んでいた。しかし、次のバスと言っても1時間後である。その中高年のグループは、「バスの中で騒がないから乗せてよ!」と言っていた。安全上あまり沢山の人を立たせた状態で乗せないのかと思ったが、都市部では立っているのは当たり前だし、1時間も次のバスを待てなんてひどすぎると思って聞いていた。結局そのグループはバスに乗ってきた。

しばらくして、バスの運転手は、今後団体でバスを利用する場合は、直前にバス会社に電話すればバスを増発してもらえるので、それを利用されると便利です、とアナウンスしていた。それにしても、そんな事が出来るなんて知らなかったし、そのために中高年の登山客のグループをバスに乗せようとしなかったとしたらひどすぎると思った。若い運転手だった。

その日は午後から雨になっていたので、道路は混んでいた。私鉄の駅に着く30分位前に、バスの運転手が、ロマンスカーに乗る予定のグループの方に申し上げますと言って、道路が混んでいるため間に合わないかもしれませんと、アナウンスしていた。
私は、乗る予定の電車に間に合うか間に合わないかのそんなぎりぎりのバスに乗る方が悪いと、人ごとと思って聞いていた。

その時は、ロマンスカーに乗るのは、子供の団体なのか、中高年の登山のグループのどちらなのかは分からなかった。

しばらくすると、運転手はロマンスカーの時刻に間に合う保証はありませんが、バスのスピードを上げるので、立っている人はしっかりつり革に捕まってくださいとアナウンスしていた。

私はその運転手のすぐ後ろに立っていたので、その運転手が、間に合わせようとして本当に一生懸命なのが良くわかった。しかし、余り急ぎすぎて、途中で降りる合図をした客が1人いたのに気がつかず、ひとつ先のバス停まで行ってしまった。そのお客には文句を言われ、平謝りだった。運転手は小さな声で、しまった、気がつかなかったと言っていた。
でも、その頃私は、運転手が盛んに腕時計を見ながら運転しているのを見て、私までもが時間は大丈夫かなと腕時計が気になりだした。そのグループのためと言うよりも、この運転手のためにも間に合って欲しいと思いはじめていた。

運転手の努力の甲斐あって、駅前には定刻の2分前に到着した。運転手は、他の客に、ロマンスカーに乗るグループを先に降ろしてあげてくださいと頼んでいた。そのグループは子供達だった。子供達は、付き添いの大人にせかされて、バスを降りると一目散に駅に向かって走っていった。

結局私が駅のホームに着いたときにロマンスカーが入って来て、その子供達も間に合ったようだった。

あとで思うに、中高年の団体に次のバスにしてと言ったのは、きっと乗降時間を節約して、少しでも早くバスを駅に向けて発車させたかったからなのだろうと思った。

こんなに乗客のために一生懸命になる運転手さんがいる事を知り、とても気分が爽快になった。1時間以上もバスの中で立っていたにもかかわらず、疲れを感じなかった。

 

020918

 

先日、朝の電車の中で私の前に座っていた女子高生が単行本を読んでいた。それは図書館から借りた本のようであった。その女子高生の降りる駅が近づくと、今まで読んでいたその本を閉じ、おもむろに通学カバンの中からビニール袋を取り出し、その袋の中に丁寧にその本を入れ、かばんに仕舞っていた。

私は、今時なんて本を大切にする女子高生だろうと感心してしまった。私自身は、つい最近大雨が降った際に、カバンの外側に入れておいた文庫本を雨でぐっしょりと濡らしてしまったばかりだったので、「そうか、このように本をビニールに入れてから、カバンに入れるという方法があったのだ。」と気がついた。
幸か不幸か、私の文庫本は、図書館から借りた本ではなく、自分の本であった。

ビニール袋に本を入れることによって、雨対策は勿論のこと、カバンの中で本の表紙が折れたりすることもなく、最後まできれいなままで本を読み終えることが出来る。公共の本であれば、なおさら大切な心がけだと思う。

図書館で本を借りると、時々あちこちにボールペンや蛍光ペンで書きこみがされている本や、ひどいのになると、切りぬき、更にはページ丸ごと抜かれている本にお目にかかることがある。 とても残念で悲しいことである。