今朝のテレビで、山岳写真家、日本のファーブルとも呼ばれた、田淵行男の
ことを放映していた。
山をやる人なら皆さんご存知なのかもしれないが、私は正直あまり良く知らなかった。
この方は、「一山百楽」という名言を残したそうで、彼はその一回一回は決して
同じ常念ではなく、いつも何か新しい出会いがあると言って、200回以上常念岳に
登り続けたそうだ。
私は、この「一山百楽」という言葉を聞いて、自分はこれだな!と思った。
私も、数えたら丹沢には周辺の山域も含めて、200回以上の山行を数える。
色々な制約から、丹沢だけを歩き始め、一昨年には、S社の登山地図にあるコースを
完全踏破したが、それでもまだ歩き続けており飽きることはない。
同じ山でも、四季折々色々な顔を見せるので、田淵行男が言っている様に、まさに
「いつも同じではなく、いつも何か新しい出会いがある」と実感している。
だから、これからも丹沢を歩き続ける。
「雑感」カテゴリーアーカイブ
夏は近い??
先日、帰宅時の電車の中で。
途中の駅で、若いお母さんと、4,5歳位の男の子が乗ってきた。
私は、本を読んでいたが、すぐそばだったので、二人の会話が
耳に入ってきた。
子 「お母さん、○○ちゃんの誕生日はいつ?」
母 「8月よ。」
子 「じゃあ、もうすぐだね」
母 「夏だから、まだ随分先よ。」
子 (まじめな顔で)「春、夏・・」
母 「??」
本を読んでいた私は、思わず笑ってしまいそうになった。
子供の発想は、大人にはうかがい知れないものを持っている。
やはり、独創的な発明は、若い時でないと出て来ないのだろうか。
ガイドウォークに参加
先日、山に行った時に、山頂で無料のガイドウォークをやっていたので参加した。
山頂周辺を一時間ほど、木々の説明を受けながら、歩くものだった。
天気も良く、のんびりと楽しく歩くことが出来たが、あいにく、いつもながら
木や花の名前を聞いても、初めて聞く名前だったり、聞いてもほとんど覚えられなかった。
説明をして頂いた方は、ビジターセンターの方で、名札には「インタープリター」と
書いてあった。自然について通訳してくれるという事なのだろうか。
そのガイドウォークに参加する為に、事務所で申し込んだ時に、その説明員の方に
対応していただいたが、とても感じが良い方だなあという印象を持った。
そして、ガイドウォークのスタート前に、事務所の前でその方と立ち話をしたが、
なぜか気持ちがとてもほのぼのとなった。
ガイドウォークに参加する人達が集まって来るのを待っている間も、その方は
優しい目でその人たちを見守っているという感じだった。
理由は分からないが、話していると、ほっとするというか、安心するというか
そんな感じだった。
この様な印象を持った人にお目にかかったのは、初めての経験だ。
年は、60をちょっと過ぎた位だろうか、好々爺という感じとも違う、不思議な人だった。
感じたままを正確には表現が出来ないが、あのような方を、徳が備わった人
と言うのだろうか。
このガイドウォークは、毎日やっているようなので、また、新緑のころに来て
この方のガイドを聞いてみたいと思った。
今日は寒い一日
今日は、土日とはうって変わって、冬に戻ったような寒さだったが、
でも、確実に春はそこまで来ている。
一昨日の山からの景色も、靄っていて、ひところの真冬に見られるような
くっきりとした山並みは見ることは出来なかった。
それを見ても、冬は終わりだなあと思う。
今年の冬は、昨年見つけた丹沢の秘密のゲレンデでスキーをと思っていたが
今年は雪の量が少なく、来年の冬までお預けとなった。
でも、毎年どんどん温暖化が進み、雪の量も減って行ってしまうのだろうか。
南極では、東京ドームの何万個分かの氷が溶けているのが分かったと
最近のニュースにあったが、我々の身の回りでも、地球の温暖化を誰もが
実感している事だろう。
温暖化防止を政治や商売の道具にしないで、なんとか食い止めることを、
真剣に考えなければ。
山行後の片付け
昨日は、ほんの5,6時間、それものんびりと歩いた山行だったのに、
久しぶりの山歩きだったせいか、早い時間に眠たくなり、10時半過ぎには
寝てしまった。
その代わり今朝は早起きし、朝食のあと、昨日の山の道具の手入れだ。
私は、山を歩くと大量の汗をかくため、ザックの背中にあたる部分は勿論、
ザックの中までが湿っぽくなるので、山から戻ってきた時は、ザックの中の
ものは全てザックから取り出し、一日中広げて湿気を取っている。
靴も陰干しの後、ブラシをかけ栄養剤、時には防水スプレーを施し、
いつも綺麗な状態を保っている。
また、靴の紐も、時々はずして紐に付いている、目に見えないほどの
小さな石を払ってやっている。本によると、小さな石によって、紐が切れやすく
なるとのことなので。
靴が綺麗だと、次に山へ行くときは、気持ちよく出掛けることが出来る。
登山の三種の神器は、ザック、雨具、靴と言われているが、私は、その中でも
靴が一番大事だと思っている。
丹沢あたりでは、夏などは、雨具なんて無くても良く、ザックだって、いざという時は
放り出しても良いが、靴だけは歩いて下に降りるためには必須である。
何事も足元が大事だと思う。
そんな訳で、私の登山は基本的には、土曜日の日帰りで、日曜日は
山の道具の後片付けと決めている。
後片付けも、次の山行のための準備と思うと、なかなか楽しいものです。
何事も、考え方次第で良くも悪くもなるのかも知れない。
マイナス思考
040201
プラス思考でなく、なぜマイナス思考??と思われる方が多いのではないかと思う。
五木寛之の「大河の一滴」の中で、使われている言葉である。 冒頭から、「人生は苦しみと絶望の連続である」と書いてあり、とてもこんな悲観的な、否定的な本は、将来のある若い人には、読ませられないと思った。 しかし、読む進めるうちに、だんだんと五木寛之の言おうとしていることが分かってきた、そして逆に光明が射して来たような気がしてきた。 すなわち、『いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。(中略) だからなにも期待しない、期待すべきではない。』と。 だからこそ、『いまの自分は、極限のマイナス地点にいて、ここを出発点とすれば、乾ききった大地には、一滴の雨が甘露と感じられるように、何も期待していない時に、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが旱天の慈雨と感じられるのだ。そこにおのずとわき上がってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えていく。だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点に立ちもどりつつ生きるしかない。』という事である。 また、この本の別のところで、人間というのは、功名成し遂げなくとも、生きているだけでも素晴らしいことだと書いている。だからこそ、自殺をしたり、他の人を殺めたりするようなことはしてはならないと。 この本を読み進むにしたがって、マイナス思考は悲観的な、否定的な考え方と思っていたのが、逆に、ちょっとした努力、前向きささえあれば、人間はプラスになれる。今がマイナス地点の極み、地獄、どん底と考えれば、何も恐れる事はないと思えてきた。 この本は、いま自分は苦しい状況にあるという人や、辛いと思っている人に読んで欲しいと思った本である。
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前向きに(その2)
040121
会社のある情報誌に、免疫力を高めようという特集があった。
その中に、私が10月に書いた雑感の「前向きに」の中での話と同様の事が書いてあったので目に止まった。 キーポイントは「食」と「心」で、6項目が書かれていた。そのうちの3項目は、どこにでも書いてある、「食」に関することなので、ここでは省略するが、「心」に関しての3項目について紹介する。 1) リラックスしてリンパ球を増やす それぞれの項目には、具体的な分泌される物質名などの説明が書かれていたが、簡単に言うと、次のような内容である。 1) 上手にストレスを解消し、リラックスしてリンパ球を増やし 是非、心がけたいことばかりである。 |
前向きに
030718
帰宅早々、夕食時にテレビをつけたら、脳腫瘍の少年が、医者から余命1年と宣告されたにもかかわらず、奇跡的に回復したという実話の紹介をやっていた。
医者にも見放された少年の両親が、藁にもすがる思いで、心理学者を訪れた。なぜ心理学者かと不思議に思ったが、その心理学者の勧めに従った結果、何と奇跡的に少年の脳から腫瘍が完全に消えてしまったのである。 心理学者の勧めに従って何をしたかというと、親子が一緒になって、モーツアルトの音楽を聴きながら、脳の中の腫瘍を追い出してやる、病気なんかに負けないぞ、必ず元気になると強く信じ、夜も昼もそのように思い続けた結果、腫瘍が完全に消えてしまったというものである。 嘘のような話であるが、私は絶対に起こり得ると思った。思ったと同時に突然目の前が明るくなった。 解説では、モーツアルトの音楽には、免疫力を強める音が含まれていると言っていた。これは、バロック音楽やいわゆる癒し系の音楽がアルファ波を出すと言われているのと同様だろうと思う。 番組では、「前向きに明るく生きると、必ず良い影響がある」と解説していた。 番組の最後に、男女のキスも免疫物質を作り出し、愛情を感じながら生きる人は、そうでない人よりも5年は長生きするとも言っていた。 (番組の内容の説明が一部正確でないところがあるかもしれないが、ご容赦の程を。) |
素晴らしい贈り物
030718
幸運の女神から素晴らしいプレゼントを頂いた。
私が、以前から一度は聞きたいと思っていたフジ子・ヘミングのコンサートに、まさに私の誕生日のその日に聴きに行くことが出来た。 この日のコンサートは、オーケストラとの共演であったが、アンコールで、リストのラ・カンパネラを弾きますとフジ子・ヘミングが言った時は、思わずやったと口走ってしまった。ソロでの演奏だった。 弾き始めると同時に、背中がぞくぞくし鳥肌が立って来た。まさに、安野光雅の絵を初めて間近に鑑賞したときと同じだった。 フジ子・ヘミングの演奏は、いつ聴いてもいつも私の心の奥深くまで入り込んでくる。 フジ子・ヘミングのアンコールの演奏が終わり、退場する際に、観客席からフジ子・ヘミングに声がかかった。彼女もにこやかに手を振っていた。クラシックコンサートでは、珍しいことではないだろうか。それほど彼女の人気の高さを物語っているように思われた。 彼女の聴力が完全に失われてしまわないかとても気掛かりであるが、これからもまだまだ健康で末永く私たち聴衆に音楽の素晴らしさを伝えて欲しいと思う。 今日の素晴らしい誕生日プレゼントを与えてくれた、素敵な女神に心から感謝したい。 |
バスの中でのちょっと不愉快な話
030605
随分と時間が経ってしまったが、昨年書いた雑感「バスの中でのちょっといい話 (02/09/23)」の続きとして、この雑感を書いている。
同じバスの中での話である。 雨が降り出していた事もあり、駅が近づくにつれ、車も増え、渋滞が激しくなっていた。それでも、その運転手のお陰で、バスはやっと私鉄の駅に着いた。 運転手は、車内アナウンスで、団体の人を優先して先に降ろして上げて下さい、と頼んでいた。子供達は、父兄や先生らしき人にせかされて、蜘蛛の子を散らすように、前や後ろの降車口から駆け下りると、駅に向かって一目散に駆けて行った。 子供達が降りている最中に、その団体の父兄か付き添いの先生かは分からないが、大人の男性が、バスの前の乗車口から入ってきて、急いでくれた事へのお礼も言わず、団体の人の運賃をまとめてバスのカードで支払おうとしていた。しかし、そのカードを通す機械は、ある人数分以上の支払いが出来ないらしく、運転手も、運賃の計算をしたりして、ちょっともたついていた。 そのうち、その大人の男性は、時間がないと言って怒りだし、カードが3,4枚あるので、それを全部置いていくと運転手に言っていた。 私が電車のホームに降り立った時には、団体の人達は全員揃っていたようで、ちょうどその時に、彼等が乗る特急がホームに滑りこんで来た。 私は、あの運転手の努力が報われて良かったと思うと同時に、あの付き添いの大人の男性の運転手に対する態度に、いささか白けた気持になっていた。 |
春の通勤電車
030517
春の朝の通勤電車は落ち着きが悪い。
4月、5月は、新しい通勤、通学の人達が増え電車の中が更に混雑し、何となく落ち着かなくなる。その混雑が理由ではない。 それは、まさに、いつも決まった場所に決まった人が座るのに、突然初めての人が入ってきて、知らずにそこに座ってしまい、周囲の人が何となく落ち着かなくなるのと同様かも知れない。 通勤慣れした人達は、混雑した車両での身の処し方を心得ているから、電車の振動や、停車駅での人の動きに対して、逆らわずに自分の体をうまく移動させている。 それにひきかえ、新入社員や新入生は、まだ自分の体を人と人の隙間の中に入れる術を知らず、人の動きに対する身の処し方も知らないので、やけに体がぶつかって来たりする。また、そのような顔ぶれの人の周囲には、やけに大きな空間が空いている。 これは、ちょうど箱の中に、物を詰めるときに、慣れている人は入れる順序や場所を心得ていて、限られた狭い箱の中に沢山の物を詰められるが、まだ要領を得ない人は、詰め方が分からず隙間だらけになり、同じ容積の箱なのに、慣れている人に比べ、少ししか物を詰めることが出来ず、箱の中が安定していないのと似ている。 |
価値観
030209
新聞を見ていて、腹立たしいことがあった。それはゴッホの絵についてであった。
その新聞によれば、最初その絵は作者不詳ということで、1万円位からオークションが始まる予定だったということだ。ところが、鑑定の結果、ゴッホの絵だと分かると、いきなり数百万円からオークションが始まり、結局6千6百万円で落札されたとの記事である。 作者が誰かによって、その価格が大きく違うというのは、分からなくもないが、1万円でオークションを始める予定の絵が最終的に6千6百万円というのは、誰が考えてもおかしいと思う。この6千6百万円というのは、その絵の素晴らしさに付いた値段ではなく、ゴッホという名前に付いた値段だということである。1万円からオークションを始めようとした関係者は美術的価値としては数万円しかないと判定したのである。 作者の名前が分かった途端、価格のみならず、絵そのものに対する評価が変わることは、往々にしてある話であるが、それはまさに芸術に対する感性が無いことを露呈するようなものではないだろうか。 色々な価値観があるとは思うが、少なくとも回りの無節操な意見にとらわれる事のない、自分の価値観を持つことが大切だと思う。 私は素晴らしい絵や写真などを見ても、それが誰の作品かということは、ほとんど気にしない。単にその作品が自分にとって、心を打つものであるかどうか、自分の好みに合うかどうかで、評価する。、映画でも同様で、監督が誰かとか、その俳優は誰かとかはどうでもよく、内容が自分にとって良ければそれでいい。だから、自慢にはならないが、有名な人でも名前を知らない事が多い。 私が何かを買う時は、まずそのものが自分にとって本当に価値があるのか、その価格に見合うものかどうかを考えてから買う。その結果、たまたまブランド品であることも有るかもしれないが、ほとんどはブランド品ではない。 女性用バッグなどの偽ブランド品が出回る事が時折話題になる。勿論、騙して偽物を買わせる人間が一番悪いのだが、私は、買う人がもっと自分の価値観を持ち、自分が本当にいいと思うものを買えばいいのに、といつも思ってしまう。 |