電車の席取り


今朝も電車の中で不愉快な思いをした。
私の右隣に座っていたおばさんが、電車がホームに着き、おばさんの右隣の席が空いたとたん、ぱっと空いた席の方に横にずれてしまった。そこはシートの一番端でパイプの手すりがあるところだった。
そのために、当然その空席に座れると期待していた前に立っていた男性は座れなくなり、唖然としていた。逆に、私の隣に空いた席には別の男性が、何らためらう風もなくさっと座ってしまった。
当のおばさんは、すでに何事もなかったかのように手すりに頭を付けて目をつぶっていた。
空いた席に優先的に座れる人は、まずはその席の前に立っていた人だと思う。 ところが、今朝の様な状態では、当然の権利が侵されてしまっている。 自分には直接関わりのないことかも知れないが、朝から不愉快にさせられた事に私は腹立たしさを覚え、そのおばさんの顔を睨んだが、目を閉じてまったく動かなくなってしまった。さきほどの機敏さはどこに行ってしまったのか。

もっと不愉快なのは、空いた席にあわてずゆっくりと腰を下ろそうとしている人を巧みにすり抜けて、脇の方から素晴らしく機敏な動きで、空席に座ってしまう輩である。 先に座ろうとしていた人が、ビックリして席の方を振り返ると、そこにはもうちゃんと先客が座っていて、先客の膝の上に座りそうになってしまう。 このような厚顔無恥なことをするのはおばさんだけでなく、おじさんにも沢山いる。

このような人々があまりに多く、日本人の謙虚さ、互譲の精神は一体どこに行ってしまったのだろうかと嘆かわしくなってくる。。そもそも互譲という言葉も知らない人も多いのかも知れない。

そのような光景を見ていると、いくら足腰が衰えてきたとしても、私はあそこまで見苦しいことをしてまで絶対に席には座らないぞと言う気持ちになる。

不当な、醜いやり方で席をもぎ取った人というのは、なぜか席に座ったとたんすぐに目を閉じてずっと寝ていたようなふりをする人と、周りを横柄に見回して何か文句があるかと言わんばかりの2通りの人種がいるようである。 やはりやましいと感じてはいるのだろうか。

きっかけ - 水彩画


病気のおかげ。
病気をしてからは、しばらく長い間にわたり肉体的に無理をしたり、精神的ストレスを与えないようにと医者から言われ続けていた。睡眠時間も7,8時間取るようにとも言われた。
今でもそれは基本的には変わってはいないのだが。 しかし7,8時間も寝るとなると、会社から帰宅してもほとんど何も出来ずに、すぐ寝る時間になってしまう。
また、そのような生活に体が慣れてしまうと、ちょっと無理をすると体がだるいと言う状態になり、悪循環となっていた。

そんな状態が10年以上も続いていると、好きなことも出来ずにこのままの人生で終わってしまっていいのだろうかと、考えてしまう。

そんな時に、たまたま画家の安野光雅先生の「風景画を描く」という番組がNHK教育テレビで放映されていた。 ヨーロッパの各地を旅して水彩画を描いている様子などが映し出されていた。 安野先生の絵は、ど素人の発言で誠に失礼だが、私にも描けそうだという気を起こさせる絵で、その番組で紹介されていた絵は私の好みにも合っていた。

絵を描くのなら、体力もあまり使わないし、金もあまりかからないので、やってみようと思い立ち、水彩画の画材を買い揃えた。 初めのうちは、安野先生の絵をまねたりして色々描いていた。
絵を始めてからしばらくして、新宿で安野光雅展が開かれていたので、早速見に行った。 本ではすでに安野先生の絵は色々と見ていたが、原画を初めて目の前にしたときは、非常に感激したことを今でもはっきりと覚えている。 背筋がぞくぞくするというが、まさにぞくぞくしたのである。おそらく絵を見てそのような感動を覚えたのは、その時が初めてだったと思う。

きっかけ - 本


病気のおかげ。
病気がきっかけで、変わったという人は世の中に沢山いると思う。私もその一人だろうと思う。十数年前に病気になり、数ヶ月入院をした。退院後もしばらく無理が出来ない状態が続いた。
しかし、病気のために失ったものも多かったのだろうが、病気のおかげで得たものも多かったと思う。

例えば、その一つは本である。もともと本は好きな方であったが、最初に入院したときに、会社の上司が見舞いに持ってきてくれた長編の本が私を更に本好きにし、興味の対象を大きく広げてくれた。
入院したときは、ただ横になって寝ているだけが治療法というような病気で、毎日ベッドの上で本を読んでいた。その時に頂いた本が、三国志(8巻)であった。その頃は、正直言ってあまり長編や時代物は好きではなかった。もっぱら推理小説ばかりだった。病院では、毎日一冊のペースで本が読め、そろそろ読む本の買い置きが無くなった頃であった。
しかたなく、三国志に手を伸ばした。そうしたら、全く新しい世界が開けた。大げさかも知れないが、いままでは食わず嫌いだったとすぐに気が付いた。こんなおもしろい本があるのかと思った。それと同時に中国の歴史のおもしろさも味わえた。

それからである、私の本の嗜好が一変したのは。長編や歴史物に興味を持ちだした。三国志の次に何を読もうかと考えたが、せっかくの入院生活だから、退院したら読むのが難しいと思われるものを読んでやろうと思い、徳川家康全26巻に挑戦することにした。最初はさすがにためらったが、これも読み出すと止められなくなった。読んでいる途中で、幸か不幸か退院となったが、通勤しだしてからもどんどん読み進むことが出来た。徳川家康のおかげで日本の歴史にも関心が強くなった。(今だから話せるが、高校時代は日本史は大学入試科目として選択しなかったので、一度赤点を取ったことがある。)

その後、新書太閤記(11巻)、水滸伝(4巻)、小説十八史略(6巻)などを読んだ。十八史略は、別の人がまとめたものも図書館から借り出して何種類か読んだ。 中国の3大古典は、三国志、水滸伝と紅楼夢だと、中国の人から聞いた。紅楼夢をいつかは読もうと思っているが、この本は図書館でしか見かけることが出来ない、難しそうな(内容は柔らかいのだが)本である。また、新平家物語などもいつか読みたいと思っている。

そのような経緯をたどって、現在は吉村 昭の本に熱中している。納得するまで事実を丹念に調査して書き上げられている、限りなく史実に忠実な本で、読んでいるとどんどん引き込まれてしまう。事実は小説より奇なりと言うが、史実を小説で読むのは更に興味深く、新たな発見がある。推理小説に戻ることは、多分ないだろうと思う。

その上司には、今でも感謝をしている。

鳥の声


 

今日、川のせせらぎの音を録音し自分のHPのBGMにしようと考えて、丹沢に向かった。 実際には川というよりも、わずかに水が流れる沢のような所の音が欲しかった。

ご存知の方も多いと思うが、川のせせらぎや鳥の音を聞いていると脳からα波を出すことが知られている。瞑想にふけっていたり、自分の好きなことに熱中している時に出てくる脳波である。速読の本などを読むと、α波を出させる訓練方法などが書いてある。ストレッチ体操などもその例である。

川のせせらぎの音を、モニターしながら録音をした。録音をし終わった後に、試しにもう一度じっくり聴いてみると、思ってもいなかった鳥の声がたくさん交じっているのに驚いた。
山の中にはこんなにも沢山の種類の鳥がいたのかと、初めて気がついた。 自然の豊かさを感じたと同時に、今まで何度も山を歩いていながら、こんなにたくさんの鳥が鳴いていた事に全く気が付かなかった自分が恥ずかしかった。

別の場所で、リュックを降ろしイヤホンでモニターしながら、またしばらく鳥の声を聴いていたが、いままでの山行にはなかった非常にゆったりとした心の安らぎを感じた。こんな豊かな気持ちにしてくれるひと時が、こんなところにあったのかという思いで、今日は私にとって心に残る山行となった。

ただ残念だったのは、沢山の鳥が鳴いていたにもかかわらず、私に判別がつくのはカラスとウグイスだけだった。

 

山行の様子を現地から携帯で投稿したり、日常の生活の中で撮った写真や、徒然なるままに思った事、雑感を投稿。