デジカメ(燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行では、家を出てから帰宅するまでの間に、何と660枚もの写真を撮っていた。予想していたことではあったが、我ながらよくもこんなにたくさん撮ったなあと思う。
途中丸一日雨の日がありほとんど写真を撮れなかったが、それでもこの枚数である。もし晴れていれば軽く800枚は越えたであろう。
従来の銀塩カメラでは、フィルム代やら現像代を考えたらとてもこんな枚数は撮れない。デジカメだからこそである。

デジカメには色々なメリットがあるが、私の写真は構え方が悪いせいでブレてしまうことが多く、ブレたのではないかと思った時には、その場でもう一度シャッターを押し直す。一枚のメモリーカードでも、画質を低めに抑えておけばほとんど枚数を気にしないで写せる事が大きなメリットだ。

撮った写真をインターネットのホームページに使う場合は、大きなデータサイズのものは避けなければならないので、敢えて高画質にしてデータサイズを上げる必要は無く、ほどほどの画質で構わない。
高画質で撮りたい場合というのは、例えば大きなサイズでカラー印刷をする時だと思うが、今まではほとんどその様な必要はなかった。

私のデジカメの用途は、ほとんどが山行記録用である。いろいろなポイントの道標や目印になるようなものまで、何でも撮ってしまう。後で、スライドショーの機能を使って撮った写真を流してみると、自分の行動を明確に思い出すことが出来る。バスの時刻表なども撮っておけば、次回に利用する時の情報として役に立つ。だから、私のホームページに載らなかった写真の何倍もの枚数の写真がパソコンの中に入っている。
しかし、これだけたくさん撮ってもホームページで使えそうなものはほんのわずかしか無いのは、やはり腕のせいでこればかりはどうしようもない。それだからこそ、出来るだけたくさん写して、まぐれの出来ばえの写真を選ぶしかなさそうである。逆にいうと、それだからこそデジカメのメリットを発揮できるのだと思う。

山行中にも、いろいろな方からデジカメを羨ましがられたが、最近は価格も下がってきており小さく軽いので、新たにカメラを買うのなら是非デジカメを買いなさいとその方々に薦めた。槍ヶ岳のあの狭い山頂でも、女子高生らしきグループにデジカメを羨ましがられて薦めてしまった。

各駅停車の旅 (燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行は、特急が何本も出ているにも関わらず、敢えて各駅停車の電車で八王子から松本まで行くことにした。

特急だと2時間ちょっとで着いてしまうので、電車に乗り込んでものんびりとしていられない。その点,各駅停車の電車は4時間以上かかるので、のんびりと車窓の風景を眺め、本を読み、駅弁を食べ、そしてまどろむ事が出来る。以前からやってみたかった事だった。
その昔、私が札幌の実家に帰省するときも、特急でなく急行に乗って帰ったことも何度かあった。各停の電車の旅は、特急では味わえない郷愁を誘うものがある。

左右に見えて来る山並みをのんびりと眺めながらの電車の旅ほど贅沢はないと思う。各停の電車だけあっていつもがらがらの状態で、靴を脱いで前のシートに足を乗せボックスを独り占めも出来る。安い料金でこんな至福の時を与えてくれるなんて、何と素晴らしいことかと思う。

帰りも電車の振動に揺られ、山行の余韻を楽しみながら山行記録を書き、また山を歩き通したという満足感に浸りながら、時間も気にせず各停の電車で帰ってきた。これが、特急で有れば慌ただしく乗り込み、慌ただしく降りる支度をしたりで、山行の余韻などあったものではない。山梨の近くでは、右手に南アルプスの山並みが見え隠れし、いつかはここも歩いてみたいなあと痛い足の裏をかばいながら、もう考えている私であった。

岩(燕岳・槍ケ岳山行)


今回の山行では、高山だけあって岩場のルートが多かったが、歩きながら思ったことは、全く同じ形をした岩はひとつも無いという事である。それでいて、形の異なった岩と岩ががっちりと組み合わさって山を形作ったり、私たちの体重を支えながら、歩く道を作ってくれている。

これは、まさに人間社会と同じである。社会は、色々な性格や能力を持った人間で構成されていて、これらの人々が、岩がうまく組み合わさって堅固な石垣を作るように、健全な社会を形成し色々な機能を果たしている。この岩のひとつでも欠けると石垣は崩れてしまう。
しかし、たまに社会に適合できない性格異常者が出てくると、石垣の岩がはずれるように、重大事件を引き起こし社会の機能をマヒさせてしまう。最近頻発している通り魔的殺人などが、その良い例であろう。

登山中も、このような岩が時々潜んでいて、思わぬところで顔を出し、たまたまその岩に不用意に足を乗せた時に、バランスを失って転倒したり、転落事故などを発生させる。
大きな岩でも必ずしも安定していないので、常に注意を払いながら歩く必要がある。 その様な時の山行は非常に神経が疲れるものであるが。

サウナ(燕岳・槍ケ岳山行)


夜行列車で登山口まで来て、そのまま寝不足の状態で山に登るという話を良く聞くが、今回の山行ではそれを避けようと思い、松本市の駅前にあるサウナで夜を明かすことを思いついた。

駅前から歩いて2,3分のところなので、翌早朝の電車の時間の心配も要らない。店の人も登山客の受け入れは心得ており、ザックの置く場所も決まっているようである。店の中には、4,50人は優に入れる休憩室や、やはり同じ広さの仮眠室があり、横になって体を休めることが出来る。軽食も摂ることは出来るが、外で自分の好きな物を食べてから、サウナに向かえばよい。ただ、残念ながら、この店は男性客のみであり、女性は入れない。

おかげで、登山初日は眠たくなることも無く、快調に予定の山小屋まで向かうことが出来た。中には、眠たいと言いながら歩いている人たちも何人かいた。危険なコースが無いから良いようなもの、特に中高年はその様な強行軍は控えたいものである。

山を下りて来て、時間的には自宅に帰ることも可能であったが、汗を流したいのと足の裏が痛くてこれ以上歩くのが苦痛だったため、またサウナを利用した。
山を始めてから今まで足の裏にマメが出来た事はなかったが、靴下が今まで履いたことの無いものだったせいだろうか、両足に合計8つほど出来ていた。
槍沢から上高地までの林道歩きは苦痛以外のなにものでもなかった。ただでさえ、林道歩きは嫌われるのに、足が痛い状態で歩くのであるからなお更である。

サウナでは、汗を流してからマメをつぶしにかかった。あいにく針が無かったので、サウナの店員さんにお願いして貸して頂いた。その他にも針の先を焼く火はあるかとか、ティッシュはとか、塗り薬はと色々親切に気を使っていただき感謝している。
おかげで、だいぶん歩行が楽になり、何とか家までたどり着いた。

松本市(燕岳・槍ケ岳山行)

 

今回の山行で、初めて松本市を訪れた。最近人口を20万人を超えたとのことだった。

ある店で聞いたところ、市内の観光名所は松本城と旧開智小学校の2カ所くらいで、やはり松本市は、登山の街であると言っていた。街並みもどことなくほかの街とは違って、駅前には観光客、登山者を迎える入れるような雰囲気を漂わせている。軽井沢などの保養地と似た趣である。

駅前には大きなザックを入れるコインロッカーも整備されている。また街の中を大きなザックを背負って歩いていても、街を行く人はジロジロと見ることも無く、見慣れた光景のようであった。食事の為に通路に置いたザックが、通行の邪魔になっていても、特に不快そうな顔も見せない。登山者に対して非常に寛容な街であると感じられた。

駅前のコーヒーショップでコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていると、大きなザックを背負った若者が何人も行き交い、大げさかもしれないが、まるで登山の前進基地に来たという感じで、「いよいよ明日初めての北アルプスに登るんだ」という高揚した気持ちを抑えることが出来なかった。
夜になるといつの間にか、駅前には寝袋を並べて体を横たえている登山客のグループが集まって来ていて、いやが上にも気持ちをその気にさせてくれた。

是非、また来たいと思った街であった。

 

出会いと初体験(燕岳・槍ケ岳山行)


 

今回の燕岳・槍ケ岳山行では、日帰り山行では経験できないようなさまざまな事に出会った。

私にとって初めての北アルプス山行であり、槍ケ岳はもちろんのこと、テレビや本でしか見たことの無かったコマクサの群生などの高山植物、雷鳥、ブロッケン現象、槍ケ岳山頂での御来光、槍の頭の雲海への影など、どれもこれも初めて見るものであり、興奮の連続であった。
また、途中燕岳から槍ケ岳へ向かう一日はほとんど雨で、長時間の雨の中の歩行も初めてであったが、ゴアの雨具を着用していれば、思ったよりは快適であることも発見した。それでも、雨が上がれば直ぐに脱いだり、また降り出すとまた着込んだりで、山荘までかなり時間を食ってしまった。

一期一会というのは、人との出会いを言うのだろうと思うが、今回のようなさまざまな体験を貴重なものとして、大事に私の思い出として留めておくと共に、私の感動を少しでも誰かに分けてあげたくて、ホームページに山行記録として載せた。

登山を始めなければ、経験できなかったことであり、私はそのきっかけに感謝すると共に、今後も登山だけでなく色々な事に取り組み、色々な事に出会いたい。行動すれば、何かが得られると思うから。

 

一期一会(燕岳・槍ケ岳山行)


 

山では、歩き始めの時間が同じ頃だと、その後もどこかのポイントや休憩所などでだいたい同じ顔ぶれになることが多い。今回の山行は、山小屋泊まりが2日だったので、おかげで10人近い方々と何度も親しく言葉を交わしたり、写真を撮ってもらったりすることが出来た。
中には遠く札幌から来たという外科医の方にも会った。私の実家が札幌と言うこともありなつかしく、何度か話をさせて頂いた。好青年であった。新聞記者の方もいた。また見ず知らずの私に、グレープフルーツをくれたグループの方もいた。

山の中では、初対面の方とでも、とても自然に話が出来るのが嬉しい。一人歩きの女性でさえ、警戒心を解いて話をしてくれるのは更に嬉しいことである(実は警戒しているのかも知れないが)。山道ですれ違うときに、明るい声でこんにちはと声を掛けられると、非常に爽やかな思いがする。声を掛けられるのを明らかに嫌がっていたり、挨拶を返さない人もいるが、私はこれからも明るく声を掛けて行きたいと思っている。

でも、すべてが偶然とは言え、なぜその人に会うのか? 日本人1億2千万人以上の中で、なぜその人なのかと思う。一生の間に一度も会わない人がほとんどなのに。
ただ、残念なのはそれらの方々とは、二度と会うことはほとんど無いと言うことである。共通の趣味である山談義に花を咲かせても、一時だけの会話で終わってしまうことは、寂しくもある。
だからこそ、その一瞬の出会いをますます大事にしなければならないと思う。出会いによって、その人から何かを感じ取りたいと思う。

(しかし、今回の山行では私がホームページを持っていることをお話ししたら、URLを教えて欲しいと言われ、何人かの方々にお教えした。これにより、何らかの形ですこしでも縁が続けばと思う。時代は変わったものである。)

 

歴史教科書


最近歴史教科書の記述内容の是非をめぐって、隣国との外交問題に発展している。
この種の問題が起こる度に思うことだが、なぜ戦後50年以上経った今でも非難され続けなければならないのか。村山首相のあの謝罪は何だったのか。事あるごとに、何度でも謝らせようと言うのか。
そこに彼らの狡猾さを感じるのは私だけであろうか。常に謝らせようとする態度、そのような外交カードを握ることで、交渉事を有利に進めようとしているとしか思えてならない。

日本が侵略者だった事は間違いないのだが、戦争には時効がないのであろうか。世界の2000年以上の歴史は、戦争、侵略、残虐行為の繰り返しである。正当化するつもりは全く無いが、日本が行った行為をはるかに上回る残虐行為は数え切れない。それを言い出したら、皆すねに傷を持っており誰も相手のことは非難できないはずである。それなのに、なぜ日本だけがいつまでも非難され続けるのか。

理由は日本政府の姿勢にもあるのだろう。毅然とした態度を取ることもなく、自分の確固たる意見も持たず、周囲の状況を卑屈に窺いながら、水に流されるように成り行きに身を任せてしまう。援助の金を山ほど捨てるように与えても、意見は言えない、聞いてもらえない、誰にも相手にもされない、そんな悲しい国になってしまっている。

日本が侵略した国に対してきちんと謝罪して、清算する機会は、過去何度もあったはずである。それを、訳のわからない屁理屈で、自分の非を認めずに今まで来てしまったのである。
何十兆円もの税金をバブルではじけた泥棒に追い銭するくらいなら、いくらでも方法はあったはずである。
昔の人の行為に対する責任を、子孫が受け継ぐのは理不尽なことである。
公平な歴史認識を持ち、自分の犯した罪は、自分が生きている間に償ってもらわなければ困る。

さもなくば、100年、200年いや1000年経っても非難され続ける。

旅の計画


旅には、3つの楽しみがあると言われる。
1つは、計画の楽しみ。2つめは、旅そのものの楽しみ。3つめは、旅から帰ってきてからの記録の整理をする楽しみである。

今は、最初の1つめを楽しんでいる。
旅というよりも山登りであるが、今年の夏休みは、初めての北アルプスに行こうと考えている。3千mを越える山は、入社後すぐに行った富士山以来登ったことがなく、2年前に登った南八ヶ岳の赤岳は3千mには届いていなかった。3千mを越えようが、越えまいが大差はないが。

今回予定している行き先は、燕岳、槍ヶ岳、上高地である。山好きな人なら何度も行ったことのある場所だと思うが、私はそれほどの山好きでないので、すべて初めて訪れる場所である。
私は、JRの時刻表を見ながら頭の中でスケジュールを組み立てるのが好きで、学生時代に一人で九州を旅した時も、何日か徹夜をして色々なコースを考え計画を立てたことを覚えている。
頭の中でシミュレーションを繰り返しながら、その時、その場で何が必要になるかを考えて、携行すべき物のリストも作って行く。だから、何かが無くて困ったということは余り無い。ただし、その代わり実際には使わずに済んだというような余計な物が増えて、荷物が重たくなるのが私の性癖である。これは日常生活でも同様で、どこかに出かける時は手ぶらという事はまずない。家内も同様の性癖のようである。

今回は、せっかく初めて訪れる場所なので、各駅停車の鈍行でのんびりと足を前の座席に伸ばし、車窓に流れる風景を楽しみながら駅弁を食べ、早めの時間に松本市に着いて松本城の見物をしたり、帰りには上高地の散策もゆっくり楽しんでみたいと思っている。松本か穂高の駅構内で夜を過ごすこともやってみたい。

山では長丁場を歩くことになるので、体力(金も)が続くかどうか一抹の不安もあるが、その為に数日前から家の中で出来る体力作りを始めている。単独山行なので、十分事前の準備を行っているつもりである。これが、家族に心配させないためのせめてもの配慮かなと思う。

サンダル


昔ながらの名前ではなく、もっとそれらしくない洒落た名前があるのかもしれないが、若い人のサンダルが気になってしょうがない。
暑くなってますます通勤にサンダルを履く若い女性が増えているようだ。

何が気になるかというと、駅の階段でのあのカツ、カツという非常に硬く、大きな音である。まるで、わざとに力いっぱいサンダルを地面に叩きつけているとしか思えないようなスゴイ音をたてる。突然、後方ですごい音がし出すので、思わず振り返ってしまう。心臓にも良くない。

その様な時には、私は必ずその女性の顔を睨み付けるようにして見るが、当の本人は大きな音を立てていることには全く無頓着な顔をしている。取り澄ました顔をしている。もっとそーっと歩くことを知らないのだろうか。自分でも大きな音は聞こえているはずである。
ましてや、サンダルは脱げ易く特に階段の下りでは危険である。今までに何度か転びそうになったり、サンダルが脱げてしまった人を見かけている。あのような不安定な履物を、電車に乗る時にまで履くという神経が知れない。

もともとサンダルというのは、家の回りでちょっと用事をしたり、目と鼻の先の店に買い物に行くのに便利な、短い時間だけの履物として使われているものである。

ましてや、通勤というのは、男であれば戦場に出かけるようなものである。それを、サンダルなどのようなものを履いてお使い気分で仕事に出かけられては困るのである。

会社は、近くのコンビニに買い物に行くのとは訳が違うのである。

はやり目と老化


ちょっと前の話になるが、いわゆるはやり目に罹ってしまった。正式の病名はウイルス性角結膜炎というらしい。
感染元は娘からであった。娘はどこから感染したのか全く不明である。

病院でもらったパンフレットを見ると、まさに潜伏期間や発病期間が全くパンフレットに書いてある通りであった。
子供の頃に、結膜炎はプールなどでうつるなどとよく言われていたが、それほど大変な病気という意識はなかった。
しかし、実際に罹ってみるとそれは大変な病気だった。潜伏期間は1週間で、発病期間は2週間であった。

最初に娘が罹り、その一週間後の全く同じ日に私と息子が発病してしまった。息子とは3回ほど一緒に病院通いをする羽目になった。
娘は発病して1週間後くらいの時には、両目が開けられなくなり2,3日ずっと寝込んでいた。その様子を見ていたので予測がついてはいたが、息子の方が同様に目が開けられなくなった。
私の方は、幸いにもそこまでにはならなかったが、涙が四六時中出てきたり、目から血が出たり、光が眩しくパソコンの画面を見るのにもサングラスをかけなければならないほどであった。その時の目はとても人様には見せられない、まさにグチャグチャな目であった。
この病気は感染力が非常に強力なため、息子は学校から出席停止を言い渡された。 私は会社からは特に出社禁止とまでは言われなかったが、とにかくひどい状態だったので、大きな会議の準備があったにもかかわらず休まざるを得なかった。

発病中の後半には、炎症のために物がかすれて見え、新聞なども読むことが困難になった。病院の先生には、大人になってからこの病気にかかると、稀に目に後遺症が残ることがあると脅かされた。3週間目になって、やっと炎症も治まり親子そろって会社、学校へ行けるようになった。

しかし、3ヶ月ほど経った今でも涙が突然出てくるという後遺症が残っている。なぜか、朝自転車で駅に行く途中に急に涙が出てきて、ハンカチを取り出す間もなく、涙が膝の上に落ちたり、会社から帰り、家の玄関に入る直前に涙が急に出て来たりする。

また、これも後遺症だろうと思うが、仕事中にどうしようもなく目がしょぼしょぼして来て、目薬を注すようになってしまった。今までは目薬のお世話になったことはほとんど無かったのだが。それから、老眼の眼鏡を掛けなければよく見えない頻度も多くなった。

最近思うのだが、年を取ってきてから病気になると、若いときとは違って完全に治りきらずに、どこかに後遺症が残り、また他の病気をするとまた別の後遺症が残り、というような事を繰り返し、人はどんどん老化を早めて行くのではないだろうかと考えるようになってきた。

だから、当たり前のことながら、年を取ってくると益々病気にならない努力が若い人よりも必要になってくるのではないかと思う。治る病気だからと軽く見ていると、色々な意味での後遺症が蓄積されて行くことになる。その良い例が、病気や怪我などで、しばらく病院のベッドで寝ていると、病気がたとえ治ったとしても、歩くことが覚束なくなったりすることである。

やはり、積極的な健康維持管理が益々大切になってくる。
山歩きを止めてはいけないと、ただ一人思う今日この頃である。

マーフィーの法則?


職場のフロアーの変更、縮小が予定されており、そのために書類の量を半減しなければならなくなった。

とてもそんなことは無理だと思っていたが、実に簡単だった。何のことはない、ただどんどん捨てるだけだった。半減どころか、十分の一くらいになってしまった。貴重な書庫スペースの大部分が、ゴミ溜として使われていたことに唖然としてしまった。

「あればよい、なくてもよいなら捨てましょう」というスローガンもあるが、自分が作成したり収集した資料や書類は愛着があってなかなか捨てがたいものである。
しかし、時代の流れが速いこともあるかも知れないが、2,3年前の資料はほとんど役に立たないし見ることもない。ましてや、前任者の古い書類は全くといっていいほど開かれることはない。その中にどんな書類が入っているのかも勿論知らない。にもかかわらず気休めに取ってあるだけである。

マーフィーの法則にあるかどうかは知らないが、いざ捨てるとその直後に大抵「あっ、あの書類は捨ててしまった!」ということがままある。書類整理をする前にも、職場の同僚ときっとマーフィーの法則が起こるよと話をしていた。

やはり法則は正しかった。予想通りに起こってしまった。
部外の人がそれを利用していたのだった。捨てたことに多少の罪悪感を感じないでもなかったが、数年に一度あるかないかの必要性以上に、捨てることが大事だなのだと自分に言い聞かせた。

整理の秘訣は、捨てることだと言うが、至言である。

次は家の中の整理か? これはなかなか至言通りには行かない代物ではある。

山行の様子を現地から携帯で投稿したり、日常の生活の中で撮った写真や、徒然なるままに思った事、雑感を投稿。