公共の広場

020828

 

最近、家の近くにあった広場を囲っているネットが取り外された。

ここは、30年間の長い間子供広場として、地域の子供達の数少ないふれあいの場であり、野球などのスポーツに毎週利用されていた。日曜日には、親子連れで楽しんでいる光景も見られた。

また、ここは災害時の一時避難所にも指定されている場所だった。

その後、配られた自治会の広報を見ると、地主だった方の都合により、地主に返還されたと書いてあった。

私も、自分の子供が小さかった頃には、ここで子供の自転車の練習をさせたり、キャッチボールをしたりしていた。また冬に雪が積もったときには、小さな山に雪を集めて滑り台を作り、近所の子供達と皆んなで楽しんだりしたこともあった。

地主のどんな事情があったかは知らないが、このような貴重な空間が無くなることは大変残念でならない。

最近の子供達は、昔と違って近所の子供達と群れをなして外で遊ぶことがめっきり少なくなってしまった。 この広場が無くなることで、ますます外で遊ぶことがなくなってしまう。昔は、子供同士、集団行動をする中で、上下関係や、自然との関わり方など色々なことを学び取っていた。

また、ここは災害時の一時避難所にもなっていたので、代わりに遠くの場所が一時避難所に指定された。しかし、その場所は狭い場所で、あんなところに大勢の人が集まったら大変な惨事を招きかねない。人命の最優先の観点からも、もっと賢明な選択をして欲しかった。

帰省

020812

 

今年の夏休みは、4年ぶりの帰省となった。
連日の暑い日々を逃れ、朝千歳空港に降り立ったときは、何と気温は15.4度という信じられないような低さだった。だまっていると風邪をひきそうなほどである。

今回の帰省は急に決めた。両親が息子の私を認識できなくなる前に会っておこうと思ったからである。父は90歳を越え、母も85歳を越えている。体は特にこれと言って悪いところはないが、母は物忘れが多いとの事だった。
でも、実際に会ってみると、何のことはない私たち若い(?)人とそれほど違わないボケ具合であった。逆に、自分が親の年齢になったらこれほどしっかりしていられるだろうかと思うほどである。
ただ、母は風で飛ばされるほど体重も軽くなったと言っていた。背負っては見なかったが、その軽いことに驚き3歩も歩けない状態だろう。

親に元気な顔を見せることが一番の親孝行といわれるが、今回の帰省は本当にそうだったような気がする。特に会話がなくても、そばに座っているだけで、両親は平和な顔をしていた。2人の伯母にも会ってきたが、どちらの伯母も、心から再会を喜んでくれているようだった。
別れるときは、今まではそんなことは無かったのに、皆握手を求めて来た。

いつまでも、お元気でと祈らずにはいられない。

ピアノコンサート

020713

 

今日、ウラジミル・ミシュクのピアノコンサートを聴きに行って来た。

以前にフジ子・ヘミングの事を書いたが、その時に、是非とも生でフジ子・ヘミングを聴きたいと思い、チケットを探したが、どこも発売から1時間以内に売り切れとの事だったので、当分フジ子・ヘミングを聴くのは無理だろうと思い、その代わりといっては大変失礼だが、たまたまフジ子・ヘミングのCDに入っている曲が4曲含まれていたウラジミル・ミシュクのコンサートのチケットが売られていたので、それを買ってあった。

フジ子・ヘミングの時もそうだったが、ウラジミル・ミシュクも私は知らなかった。今日、コンサート会場でもらったパンフレットの説明を見て、この人も今は大変な人気のピアニストであることを知った。昨年、一気に人気が爆発したと書いてある。ロシア人で、まだ、30歳代で背も高くハンサムでいかにも女性に人気がありそうである。
私が座った席は、2階席であったが丁度まっすぐ目の前でミシュクのピアノを弾いている手が良く見えた。ピアノのテクニックも素人ながらに凄いと思った。

ただ、私は音楽は全くの素人で演奏についての評論なんてとても出来るはずもないが、それでも同じ曲を違う人が弾いたときの違いは多少わかったような気がする。
私はヘミングのピアノ演奏をMDで何度も聴いていたせいか、ヘミングのピアノの方が私の心に響くようだった。波長が合うという感じである。これは、流行歌の場合でも、その歌をヒットさせた本人が歌った場合と、他の人がカバーで歌った場合では、まるで印象が違ってくるのと同じで、大抵の場合、ヒットさせた本人が歌った場合のほうが、やはりその曲の感じが良く表現されているように思う事が多い。
演奏者が違えば、聴いた時の感じ方が違ってくるのは当然と言えば当然だろう。

ヘミングは、もちろん演奏技術は持っているが、人間は機械じゃないのだからその日によって演奏が少しくらい変わっても、あるいは間違っても構わないという考え方だと言う。音符通りに弾くのであれば、今の時代、機械がその位のことはやってのけるであろう。
ヘミングの場合は、音と音の間、本で言うところの行間が、他のピアニストと違うと言われているので、先入観かもしれないが、音間がとても良く聞こえる。ヘミングのピアノの音の波形を見ると、他の人とは違い、音と音の間が完全に切れておらず、つながっているとテレビでも紹介されていた。

とは言え、やはりミシュクの生のピアノ演奏も素晴らしかった。私が知っている曲も多かったので、久しぶりに楽しいひとときを過ごすことが出来た。

冒険心

020707

 

昨日近くの手軽な山に登ってきた。

山から下りて来て国道に出、バスの時刻表を見ると、何と一日に3便しかなく、2時間くらい待たないとバスは来ない。相模湖駅まで一時間近く国道を歩かなければならなかった。
しかし、国道沿いに歩くコースとは別の東海自然歩道のコースがあったので、初めてであったがアスファルトの道を歩くよりもと思い、そちらを選択し歩き始めた。

歩き始めて20分位過ぎたころ、私と同年配とおぼしき男性が、私を追い抜きどんどん先を歩いて行った。
しばらくすると、下のほうに相模川と弁天橋が見える所に出た。
するとその男性は休憩しながら、この先どうするか考えている風であった。

私はこのコースは初めてだったので、私はその男性に「この道をずっと行けば、相模湖駅に出るんですよね?」と声をかけた。
すると、その男性も初めてでよくわからないと答えた。そこで、私はザックから地図を取り出し、現在地とこれからの駅までの道のりを確認し、その男性にも地図を示した。

ところが、その男性は、知らないコースなのでやっぱり国道まで戻ると言い出した。私は、バスは一日に3便しか無く当分来ないし、ここまで来てしまったら、国道まで戻って道沿いに駅まで歩くとなるとかなり時間が余計にかかりますよと説明したが、それでも引き返していった。

私はその男性の行動について、理解に苦しんだ。 いくら初めてのコースであっても東海自然歩道のコースであり、時間的にもはるかに早いし、地図でも確認したのである。

私なら、まったく危険の無い平坦な道と、全く未知のほんのちょっとの冒険心が要求される2つの道があれば、迷わず後者を選ぶと思うし、そうありたいと思った。

その男性には、過去に苦い思い出か、何か事情があったのかも知れない。

後で思うに、このあたりでバスが一日に3便なんて有り得ないと思ったのかも知れないし、また私が地図で説明したことが信用されなかったのかも知れない。もしそうであったとすれば、ちょっと残念である。

祝日本W杯決勝トーナメント進出!!

020615

 

昨日、とうとう日本のサッカーチームは悲願のW杯の決勝トーナメント進出を決めた。日本中が興奮の渦の中にいる。
日本中の人々に希望と感動を与えてくれた日本チームに、心から有難うと言いたい。

他のスポーツの観戦では、席から立ち上がったり大きな声で応援したりすることは無いが、何故かサッカーの国際試合の時だけはいつも興奮して応援してしまう。おかげで、声を張り上げて喉も痛くなる。
日本中のほとんどの人がサポータ状態になっていたことだろう。
サッカーの国際試合では、いつもドーハの悲劇を思い出すので、後半のロスタイムは、特にハラハラドキドキする。でも、このハラハラドキドキ感がたまらなくいい。

これだけ多くの日本人が熱く燃え、見知らぬ人同士が手と手を取り合ったり、抱き合ったりして、長時間にわたって喜ぶなんてことは、未だかつてスポーツ以外においても無かったと思う。
昨日は、勤務中のため残念ながら試合を見ることは出来なかったが、帰宅の電車の中に「パブリックビューイング」からの帰りらしいジャパンブルーのユニホームを着た女性達がいて、試合の模様を話をしていた。私も喜びを共有したくて声をかけたい衝動にかられた。自分でも、不思議な気がした。

元来、日本人は喜びや悲しみをあまり顔や態度に表すことはしなかったし、それが美徳のようにさえ言われて来た。しかし、今やサッカーの魅力が日本人の既成概念を大きく変えてしまったようだ。昔からサッカーが盛んな国々の人たちと同じ価値観を、やっと共有できるようになったのかも知れない。その結果、中津江村のように色々な国とサッカーを通じて仲良くなれれば良いと思う。(サッカーが原因で戦争になる場合もあるけれど。)

白黒の世界

020523

 

白黒の世界

先日、東京で雪舟展をやっていたので、見に行った。
天皇陛下も見に行かれ、新聞では大々的に宣伝していたが、水墨画にはそれほど興味も無く、行く予定にしていなかった。しかし、素晴らしい作品ばかりで、もう一生見ることの出来ないものだと言われ、前夜に急に決めて出かけた。

開館時間前にもかかわらず、上野駅から美術館の方に向かって、沢山の人がぞろぞろと連なっていて、入場券を買うために長蛇の列が出来ていた。結局、入場券を買うのに30分近く並んでしまった。

水墨画というのは、白黒だけのモノトーンの世界で、油彩や水彩の絵と違い、それほどじっくりと感動しながら見るようなものではないだろうと思っていた。
しかし、見学者の熱気もさることながら、やはり世界の雪舟と言われるだけあって、筆使い、微妙な墨の濃淡による遠近感、透明感など、初めて水墨画の奥深さを知った。
有名な、「天橋立」や「山水長巻」などの本物を目の当たりにするのは、やはり胸が高鳴るものである。

水墨画の中には、中国の水墨画の影響を受けているためか、朱や緑がわずかに使われている水墨画も中にはあったが、基本的には、白黒の世界である。しかし、水墨画を見ているうちに、白黒であるという意識は全く無くなってしまう。
自分がその水墨画の世界に入り込んでしまい、色の区別もつかなくなってしまうのだろうか。

これは、夢を見たときに、後で思い返しても白黒の夢だったのか、カラーの夢だったのか思い出せないのと同じではないだろうか。また、昔見た白黒だったはずの映画が、今思い起こしても白黒の映画だったのか、カラーの映画だったのかはっきりと覚えていないのにも似ているのではないだろうか。

久しぶりに文化的な時間を過ごしたが、ただ、余りの人の多さに、見学者の列がなかなか前に進まず、係員に、立ち止まらずに前に進んで下さい、と何度も言われたのはいささか興ざめではあった。

子供

020509


私の顔は、子供にとって警戒を与えない顔をしているのだろうか?
特に、幼児とは相性がいいようだ。

電車の中で、幼児と目が合ったりすると、その幼児の方から先にニコニコしてくる事が多い。私は子供が好きなので、こちらもニコッと笑うと、それからは私か、その幼児が電車から降りるまでお互いにニコッが続くことになる。おかげで、唯一の読書の時間も中断となる。

先日の山行の途中で、夕食の為に入ったファミレスで、私の前のボックス席で若夫婦と2,3才位の男の子が食事中だった。私はひげも剃らない汚い顔をしていたが、私の目とその男の子の目が合うと、その男の子はニコッと笑いかけてきた。私も、ニコッと笑うと、その男の子は、狭い隙間からこちらのボックス席に無理矢理入って来ようとした。
その男の子のお母さんは、私の方を変な目でジロッと見ていたが、私は別に気にもせず、その男の子を見ていた。お母さんが、子供を引き戻しご飯を食べさせていたが、その子は私の方が気になって何度も私の席の方に来ようとする。その度に、お母さんが私の方を気にして、子供を引き戻すので、私も悪い気がして来て、あまり子供を見ないようにしていたら、そのうち子供も諦めてしまった。

私は、自分の子供が小さい頃は、子供が連れてきた近所の子供達とも遊んだり、一緒にどこかに連れて行ったりもした。あまりにも、他の子供の事を可愛がるので、自分の子供が嫉妬して、「お父さんは、何で他の子供ばかりを可愛がるの!!」とクレームされた事もあった。子供と遊んでいると楽しかったし、特に、小さな子供は無邪気で、素直で可愛いと思う。

家内からは、お父さんは孫が出来たら可愛がって大変だね、と言われているが、私は孫だから可愛いと言うよりも、子供だから可愛いという気持ちではないだろうかと、今から思っている。

完全踏破

020409


先日の山行は、暖かく気持ちも良かったので、一緒になった男性としばし山頂での山談義を楽しんだ。

その男性は、年間60日間位も山に行っているという人であった。私は、丹沢しか歩いていないと言ったら、なぜかと不思議がっていた。

日本にはたくさん良い山があるのに、なぜ丹沢しか行かないのか理解できないのかも知れない。
私が、丹沢にこだわる理由は、一つには単に自宅から割合に近く、日帰りで気軽に行け、なおかつルートがたくさんあるからということ。 それと、せっかく山を始めるのなら何か目標を持って歩きたいと考え、丹沢完全踏破を思いついた。人によっては、日本百名山の登頂などと考えるかもしれないが、とてもそんな時間と金の余裕はないし、誰でもが目指す目標に思えた。また、日本全国あちこち歩いているという人にも、たくさんお目にかかる。

しかし、丹沢完全踏破を目指しているという人には、まだ出会ったことはなかった。(そのような人は私が出会わないだけで、たくさんいるのだとは思うが。) 丹沢のルートはほとんど歩いたと言う人には時々会うが、聞けばそれは主要なルートの事だけを言っていることが多く、完全踏破とはほど遠い事がほとんどだった。

そこで、私は他の人があまり考えない事を、つまり丹沢のルートならどこでも知っていると言えるならば、喜びも大きいと思い、S社の山の地図にある全ての山行ルートの完全踏破を目標に定めた。

目標に向かって歩き始めてから6年ほど経っているが、8割から9割くらいは歩き終えたと思う。完全踏破は、多分来年になるだろう。

(無理をせず、気を付けて歩きます。自分一人の命ではないので。)

家族の温かい抵抗

020330


今朝は、山に行く支度を終え家を出る寸前で家族の温かい抵抗に遭い、山行を取り止めてしまった。

昨夜というか今日の早朝までかなりの雨が降っていたために、道が悪くなっていて心配だから、今日山に行くのは止めてくれと家族に懇願されてしまった。

家族には、山イコール危険あるいは遭難という図式があるようだ。危険は、山だけでなく家の中にも、街中にも一杯あると思う。
要は、いろいろな所に潜む危険をどこまで予測し、対策を取る事が出来るかだと思う。何も予測できず、対策もとらなければ、山よりも街中の方がはるかに危険がいっぱいである。

私は、今日歩く予定のコースは頭の中に入っており、道がぬかるんでいたりしても、通常の注意を払っていれば危険はないコースであること、また今日の天候は急速に回復することも計算に入れての3週間ぶりの山行計画であったが、無惨にも打ち砕かれてしまった。

以前の雑感で「最悪、遭難して誰にも発見されることもなく死ぬことになっても、多分後悔はしないだろう、と言う気持ちで歩いている」と書いたが、私はどんな易しい山行でも何が起こっても対処できるように、万全の準備をしているつもりである。それだけの注意を払った上での万が一の遭難死であったなら、あきらめもつくという趣旨であったが、どうも、「私は無謀な登山をやっていて、山で死んでもかまわないと思っている」、と家族には受け止められていたのかも知れない。

今日の土壇場での山行取り止めは、家族の私を心配する気持ちの結果と理解し、厳粛に受け止めているが、それにつけても、今日の空は何と明るく、青く澄み切っていることか。

18才未満

020329


通勤電車内で、紳士然とした年配の人が、立派な革のカバンの中から、おもむろに分厚い週間漫画を取りだし、悠然と読んでいる風景に出くわすことが多い。

私にとっては、非常に幻滅する一瞬である。別に漫画が悪とまでは言わないが、時と場所というものがあるのではと思う。公衆の面前で、良識のある年代の人が平気で漫画を見ている図は滑稽と感じるのは私だけだろうか?

読むべき本は他にもたくさんあるのではないだろうか? 私は、通勤電車の中ではほとんど本を読んでいる。本を読める時間は片道で20分たらずであるが、それでも吉村昭の本100冊以上のほとんどを電車の中で読んだ。短い時間でも、毎日積み重ねると膨大な時間になる。電車の中で勉強して、資格を取る人もたくさんいると聞く。

疲れていて、せめて電車の中ではのんびりとしたいと言う人もいるのかも知れないが、大抵は同じ人が毎日のんびりしていることが多い。どうしても読みたければ、家で読んで欲しい。

森本哲郎氏が、日本人の幼稚化ということを発言されているが、まさに電車の中の光景にそれを見ることが出来る。本来、漫画は子供の読み物である。外国人は、日本人の大人が漫画を読んでいるのを見ると奇異に感じるという。私もそう感じる。

漫画を購入出来るのは、18才未満だけにしたらどうだろうか。

波長

020322


波長が合うと、同期し共鳴するのが、自然の摂理である。

先日、テレビでフジ子・ヘミングという人のピアノの演奏を初めて聴いた時に、鳥肌が立つほど共鳴した。
私は、このヘミングという女性は、いま日本でとても人気があるピアニストであることを全く知らなかった。しかし、ほんの2,3分間の短い演奏であったにもかかわらず、いままでのクラシック音楽では感じたことの無い素晴らしい感動を覚えた。まさにその曲が私の心の中に入り込んで、大きく共鳴した。

翌日、早速あちこちの店でCDを探し回ったが、どこも売り切れで、初めてその人気の高さを知った。手に入りそうもないので、店で注文をしておいたが、それでも早く聞きたくてたまらず会社の帰りに中古の店でやっと見つけた。

以前の雑感でも書いたが、画家の安野光雅の原画を初めて見た時にも背筋がぞくぞくした。この時も、私の体は絵の素晴らしさに共鳴していたのだと思う。

自然界の物質は、全てその物質特有の固有振動数というものがあるが、人間もその人特有の振動数(すなわち波長)を持っていると思う。
だからこそ、人それぞれ感じることや興味の持ち方が皆違うのである。

自分と相手の波長が近ければ、良い人間関係になれるだろうし、波長が合わないと、不協和音となって一緒にいるとお互いに疲れてしまう。また、波長が合わなくても、適当なズレの場合は、時には打ち消し合ったりもするが、お互いに強め合い、何とか上手くやって行けるのだと思う。

しかし、この波長は安定度が悪く、いつも一定ではない。その日によっても波長は変化し、また加齢と共に波長がずれて行き、いままで若い時には何の興味を持たなかったものに興味を覚えたり、好きになったりする。ある時突然ある人を好きになったりするのも、波長のズレのせいかも知れない。

ボランティア

020303


今朝、テレビで、ボランティアに関するとても心に残る良い番組を見た。

パソコンのボランティアではなく、重度のあるいは余命幾ばくもないような障害を持った子供たちとその家族に、喜び、楽しみ、励ましを与えるボランティアについてである。

これは、アメリカでの話である。
アメリカおよびアメリカ人の心の豊かさ、懐の深さ、思いやりの深さを感じさせる番組であった。(番組のタイトルは、「心を癒す魔法の国」となっていた。)

この組織を運営しているのはNPOであり、その代表をされている方は、自分の資産全てをなげうって広大な土地を購入し、そこに色々な企業からの寄付でテーマパーク、招待した家族のためのヴィラなどの設備を建設し、毎年米国内のみならず、全世界から、障害を持った子供とその家族を無料で招待して、苦しみを忘れ楽しい一時を過ごす機会を提供しているという。日本では決して考えられないほどの、家族に対する心配りがされている。

そこで働いている人たちも勿論全てボランティアである。ボランティア活動の保険も自分持ちである。

そこで働いている人の話で、自分は自分に無理のない範囲で出来るだけの事を、ありのままの自分を捧げていると言っていた。また、ボランティア活動においては相手への思いやりが大切だとコメントしていた。
相手への思いやりという言葉は、日本人的な感じがするが、これをアメリカ人の口から聞くと、やはりこれは人類全てに共通の感情なのだと知り、嬉しかった。

また、このNPOの代表の方が、「私は他の人のためにではなく、自分のためにこれをやっている。」と明言していた。この言葉にちょっとショック(ネガティブな意味ではなく)を受けたが、その理由は、「自分がこのような活動を行うことによって、自分自身が充実感を得ることが出来るから。」と言っていた。

ボランティア活動というものの本質を述べているような気がする。

(このNPOのHPは、http://www.gktw.org/です。英語のサイトですが、興味のある方はどうぞご覧下さい。)

山行の様子を現地から携帯で投稿したり、日常の生活の中で撮った写真や、徒然なるままに思った事、雑感を投稿。